折口信夫への中沢新一と三島由紀夫の相反する二つの評価

 中沢新一「古代から来た未来人 折口信夫」(ちくまプリマー新書)は折口信夫への徹底的なオード(頌)であって、ここまで傾倒するといっそ小気味よい。

 かれこれもう三十数年にもわたって、わたしは折口信夫を読み続けている。いくつかの文章のさわりなどはしっかり暗記さえしていて、空で朗読することもできる。二十代はじめ頃の一時期などは、鞄の中には黒い装丁の大判全集の中の1冊がかならず忍ばせてあって、いきあたりばったりに開いた箇所から読み始めて、夢想にみちた1日の思考をはじめるのがつねだった。(中略)
 折口信夫の文章のない世界など、わたしにはとうてい考えられない。そんな世界に生きていても、おそらくわたしは日本語を読んだり語ったり書いたりすることに、いまほどの喜びと充実を感じることができないだろう。言葉は思考の源泉であり、母国語の深みでわたしたちは思考を超えた存在の根にふれることができる。折口信夫の思考と文章を通して、日本語というローカルなことばの全能力は開かれ、思考のことばが存在の根になまなましいほどの感触をもってふれる奇跡が表現されている。学者たちがなんとこきおろそうともかまわないから、折口信夫のような奇跡的な学問をなんとかして自分でもつくってみたい。それがわたしをこれまで突き動かしてきた夢だったような気がする。

 この本を読んだあとで偶然私は三島由紀夫「獅子・孔雀」(新潮文庫)を読み返した。この本は昔カミさんが大学の授業で使ったテキストだ。彼女の言う横浜の三流私立女子大で、新山茂樹のゼミだった。この短篇集の中から「獅子」が選ばれ、文庫本にカミさんによる小さな鉛筆の書き込みが残っている。それをたどると、新山先生、三流私立女子大の先生にしてはなかなか優れた学者だったのではないか。
 それから数年後、不思議なところでこの新山茂樹の名前を目にした。近代日本政治史を研究するシカゴ大学の教授テツオ・ナジタの著「明治維新の遺産ーー近代日本の政治抗争と知的緊張」(中公新書)の「序文」に、

過去数年にわたって、アメリカにおいても日本においても、三谷太一郎、佐藤誠三郎石井紫郎、新山茂樹の諸氏は、親切に彼らの知識を分け与えてくれた。

 さて、三島由紀夫のこの自選短篇集には「三熊野詣」が収録されている。これは清明大学の国文科の主任教授で、文学博士で、また歌人としても知られていた藤宮先生が、お手伝いの女性を連れて熊野三山へ詣でる話である。
 この藤宮先生が折口信夫をモデルにしていて、三島は中沢新一と反対におそらく悪意をもって折口を戯画化してたいそう醜く書いている。

 第一、先生はきわめて風采が上らず、子供のときの怪我から眇(すがめ)になり、その負(ひ)け目もあって、暗い陰湿な人柄であった。(中略)
 先生は奇異な高いソプラノの声を持っていた。激したときには、それは金属的な響きにさえなった。どんなに身近に仕える者も、先生がいつ怒り出すか、前以て知ることはできない。講義のあいだに、何か理由もわからずに退場を命ぜられる学生が時折ある。よく考えてみると、その日赤いスウェータアを着ていたことが理由であったり、鉛筆で頭を掻いて雲脂(ふけ)を落していたことが理由であったりする。(中略)
 近代的な清明大学の明るい校庭を、先生が数人の弟子を連れて横切られる光景は、大学の名物になるほどに異彩を放った。先生は薄い藤色の色眼鏡で、身につかぬ古くさい背広を召して、風に吹かれる柳のような力のない歩き方で歩かれる。肩はひどい撫で肩で、ズボンはまるで袴のように幅広く、髪はそのくせ真黒に染めているのを、不自然にきれいに撫でつけている。うしろから先生の鞄を捧げて歩く学生も、どうせ反時代的な学生だから、この大学ではみんなのきらう黒い詰襟の制服を着て、不吉な鴉の群のようにつき従ってゆく。先生のまわりでは、重病人の病室のように、大きな快活な声を立てることができない。話を交わすにしてもひそひそ声で、それを見ると、遠くから、「又葬式がとおる」とみんなが面白がって見るのである。

 どうして三島はこんなに悪意を持って書くのだろう。二人が同じ男色趣味を持つことの反発だろうか。それとも三島が何よりも嫌う「老い」が折口に顕著に体現されているせいだろうか。
 同じ折口信夫に対して、中沢は思想を見て、三島は姿や振る舞いを見て正反対の評価をした。ただ折口に対する三島の嫌悪とは別に、この「三熊野詣」という作品は優れたものだと思う。三島は傑出した作家だと改めて思った。