民俗

吾嬬神社と亀戸石井神社に初詣に行く

墨田区の吾嬬神社と江東区の亀戸石井神社に初詣に行く。私見ではどちらも東京で最も古い神社だと思われる。しかし往時の栄光はとうに廃れ、どちらにも専任の宮司はいないし、初詣の参拝客もほとんど見かけない。近くの江東区の香取神社や亀戸天神は参拝客が…

志村真幸『未完の天才 南方熊楠』を読む

志村真幸『未完の天才 南方熊楠』(講談社現代新書)を読む。熊楠は驚くべき才能を多方面に発揮しながら、その仕事のほとんどが未完成に終わった。柳田国男とともに民俗学の基礎を築いたものの、途中で喧嘩別れしてしまった。キノコの新種をいくつも発見して…

菊地暁『民俗学入門』を読む

菊地暁『民俗学入門』(岩波新書)を読む。タイトル通りの見事な民俗学入門書。柳田国男が始めた民俗学はどこか古臭い印象で、もう流行らない過去の学問かと漠然と思っていた。とんでもないことだった。 本書は3つの章からなり、それぞれ3つのテーマを掲げ…

天下大将軍 地下女将軍

西武池袋線高麗駅前に赤い2本の柱が立っていて、大きく「天下大将軍 地下女将軍」と書かれている。これは何だろう。この地が朝鮮半島ゆかりの地であることは知っている。有名な高麗神社があるし、近くには九万八千社という不思議な名前の神社もある。九万も…

泣き女と魂呼ばい

畑中章宏がエッセイ「わざとらしさ」で泣き女(なきめ)と魂呼(たまよ)ばいについて書いている(『図書』2021年5月号)。 日本の民俗に、野辺送りや埋葬など、葬送習俗の中で儀礼的に号泣する「泣き女」、あるいは「ナキオンナ」という役割をもつ人がいた…

椋鳩十の顔について

コロナ禍で家にこもっていて古い写真を整理していると昔撮った椋鳩十の銅像写真がでてきた。椋鳩十は長野県喬木村出身の童話作家。本名久保田彦穂、1905-1987。母親を早くに亡くし、継母との折り合いが悪く、法政大学文学部卒業後鹿児島の女学校へ赴任し、故…

からももとヤマモモ

『古今和歌集』の「物名」に、ふかくさの和歌が載っている。ふかくさは清原深養父で、覚醒剤番長の先祖に当たる(らしい)。 からもゝの花 あふからもものはなほこそ悲しけれ 別れんことをかねて思へば 「物名−モノノナ」は題の語を歌の中に隠して詠んだもの…

高知県人は話を盛るか?

東京大学出版会のPR誌『UP』9月号に須藤靖の「注文の多い雑文 その43」が載っている。今回のテーマは「アインシュタインは本当に『人生最大の失敗』と言ったのか」となっている。 一般相対論にしたがえば、この宇宙は時間変化することが予言される。つまり、…

“食べられる垣根”ウコギ

読売新聞に「“食べられる垣根”ウコギ」という見出しで女性がおにぎりを差しだしている写真が大きく載っていた(6月10日)。女性の後ろに垣根にしている緑の葉が茂ったウコギが写っている。 新緑の季節、山形県米沢市では、生け垣の低木を剪定する人をよく見…

小林紀晴『ニッポンの奇祭』を読む

小林紀晴『ニッポンの奇祭』(講談社現代新書)を読む。小林は長野県諏訪地方出身の写真家で、小さいころから諏訪大社の御柱祭に触れてきた。諏訪大社は上社と下社からなり、そのそれぞれに2つの社がある。つまり4つの社があって、その4隅に柱を立てる。そ…

中沢新一『熊楠の星の時間』を読む

中沢新一『熊楠の星の時間』(講談社選書メチエ)を読む。中沢が行った南方熊楠に関する5回の講演を記録したもの。熊楠に関するものとはいえ、講演録なので言葉はやさしく読みやすい。しかし、テーマが熊楠の特異な思想を取り上げているので内容はかなり難し…

宮本常一『私の日本地図1』を読む

宮本常一『私の日本地図1・天竜川に沿って』(同友館)を読む。宮本が天竜川の河口から川をさかのぼって天竜川の始まりの諏訪湖までを旅した記録。正確には一度に旅したわけではなく沿線を何度も歩いたものを1冊の本にまとめたもの。 宮本が撮った写真がほ…

『信州人 虫を食べる』を読む

『信州人 虫を食べる』(信濃毎日新聞社)を読む。著者は田下昌志・丸山潔・福本匡志・横山裕之・保科千丈の5名。太田寛長野県副知事が巻頭言を書いている。3つの章に分かれていて、第1章が「虫の4大珍味 伝統的な信州の味」となっており、ジバチ、イナゴ…

オコギという山菜

朝日新聞の「ひととき」欄に「あの山菜をもう一度」という投書が載っていた(5月5日)。投稿者は調布市の岡村三華子38歳。 5月が来るたびに、切ない気持ちになることが、ひとつある。 ゴールデンウィークは、たいてい茨城県日立市の実家に帰る。(中略) 両…

『大古事記展』と桃の実

奈良県立美術館で奈良県主催の「大古事記展」が開かれる(10月18日〜12月14日)。『古事記』を題材とした絵画や古社に伝わる宝物、それに考古・文献資料などが展示されるという。東京で開かれたそのシンポジウムに参加した。 展示予定品のパネル写真があって…

イナゴとコオロギの違いは何だろう

娘から、父さんコオロギ食べるよね、と言われた。違う、コオロギは食べない、食べるのはイナゴだ。イナゴは稲を食べていてきれいだが、コオロギは植物でも腐植を食べていて不潔な印象がある。だいたいイナゴは食用だがコオロギは虫に過ぎない。確かに娘はイ…

胸を露わにしていた昔の生活

子供の頃の夏、タバコ屋の太ったおばさんは「暑い暑い」と言って上半身裸でうちわを使っていた。友だちのお父さんは畑仕事の後、川で身体を洗っていて近所のおばさんに「ご立派なお道具だこと」とほめられていた。昔の村の生活は純朴だった。 以前、雑誌「We…

「ずら」の語源は

ある美術のメーリングリストで、『銭ゲバ』を見ていたというOさんが「ずら」はどこの方言かと質問した。 それに対して山梨のYさんが回答した。 Oさん、ずらって、山梨県の方言だと思います。・・・たぶん。 そーずら、とか使いますから。 その回答を読んでO…

おこげのお浸し

私が育った長野県の飯田地方は昆虫食のセンターでもあるが、「おこげ」という低木の新芽をお浸しにして食べていた。春芽吹いた時、それを摘んでお浸しにする。ちょっとでも葉が大きくなると硬くなって食べられない。だから食べられるのはほんの短い期間だ。 …

セミを食べる人

ベランダに落ちゼミがあったらしく飼っている猫「チビ」が獲ってきた。しばらくジージー鳴いていたが、静かになったので見ると2枚の羽根と脚が1本、そして眼のところだけが残っていた。 娘が嫌がってまるで昆虫学者のようだねと言う。そう言えばそんな昆虫…

わが村の二人称

1967年に北海道大学に入学した小中高と一緒だった友人のK君が、同級生に「てめえ、どっから来たのよ?」と聞いて、相手は喧嘩をふっかけられたと思ったという。K君にしたら「君はどこの出身ですか?」くらいのつもりだったのに。私たちの村で皆がてめえなん…

ブータンの学僧ロポン・ペマラの突然の読経

今枝由郎「ブータンに魅せられて」(岩波新書)に興味深いエピソードが紹介されている。ロポン・ペマラはブータン国立図書館長でブータンでも屈指の学僧だ。 1975年にロポン・ペマラが初めてアメリカに旅行した時のことである。(中略)ロポン・ペマラはかれ…

鳶職は堅気ではなかったのか

若い頃テキ屋の親分の襲名披露に出席したことがある。なに、使役させられただけだ。当然全国のテキ屋の親分衆、博徒の親分衆が集まった。そして驚いたことに鳶の頭たちも参加したのだった。テキ屋も博徒もヤクザと一括りにされる堅気ではない人たちだ。鳶も…

日本を代表する料理は?

中尾佐助が世界の料理を分析して、どこの国の料理も何かの味にステインされていると書いていた。ある基本的な味に汚されている、覆われているというような意味だった。具体的には、ヨーロッパは動物性油脂に、インドはカレーに、そして日本は砂糖にという驚…

ポトラッチ

何ていう新聞だったか、読者の俳句が掲載されていた。 母 の 日 や 末 子 が く れ し 長 電 話 末子は中国の上海に住んでいるらしい。海外からの長距離電話は高くついただろう。そんな出費をしてまで長電話してくれたのが嬉しいのだ。 自分のために相手が出…

素朴なイスラム教徒の世界観

表象文化論の田中純が「時のアウラーーロッシとタルコフスキーのポラロイド写真」(「UP」2007年9月号)で、写真に対するウズベキスタンのイスラム教徒の反応を次のように紹介している。 タルコフスキーの友人だった脚本家トニーノ・グェッラは、これもまた…

椋鳩十の顔、村の顔

椋鳩十は長野県喬木村出身の童話作家。本名久保田彦穂、1905-1987。母親を早くに亡くし、継母との折り合いが悪く、法政大学文学部卒業後鹿児島の女学校へ赴任し、故郷へはあまり帰らなかった。鹿児島を第二の故郷とし、鹿児島県立図書館長を長く務めた。晩年…

インドで私も考えた

ずいぶん昔になるが、アジア太平洋雑草学会がインドのバンガロールで開かれ出席したことがある。2週間の出張と言うことで、カミさんは生まれたばかりの娘を連れて遠くの実家へ帰ってしまった。やむなく50〜60鉢あった盆栽は2鉢を残して処分した。 インドで…

マテ茶と交差いとこ婚

若いころレヴィ=ストロースの「悲しき南回帰線」を読んで、南米インディオがマテ茶なるものを飲んでいることを知った。一度飲んでみたいと探したがなかなか見つからなかった。いまから35年も前なのだ。ようやく新宿小田急デパートで見つけたが、大袋しかな…

男言葉・女言葉

もう20年くらいになるだろうか。山梨県で幼児誘拐事件があって、女性を名乗る犯人からの脅迫状が届き、それをを分析した言語学者が、犯人は男ですと言った。脅迫状に「〜と踏んだ〜」という表現があったのだ。詳細は忘れたが例えば「多少泥臭いほうが信頼が…