高峰秀子『にんげん住所録』を読む

 高峰秀子『にんげん住所録』(文藝春秋)を読む。先月某所で一時手許に読む本がなくなって、某所の自由に読める小さな本棚から借りたもの。高峰のいつもの読みやすいエッセイが並んでいる。

 その中で子供のころから映画の子役として引っ張りだこの忙しさだったことに触れている。学校へ通う暇もなかった。勉強する機会がなかった。

 高峰は5歳くらいで母親を亡くしている。それで父親の妹、叔母に預けられた。叔母は高峰が子役として断トツの人気でドル箱だったので、何よりも映画出演の仕事を優先させて学校にも行かせなかった。それはなぜか?

 私は叔母にとって高峰秀子が兄の娘だったことが影響していると思う。これが姉妹の娘だったら変わったかもしれない。兄の娘だということは、実は嫂の娘だということだ。多少なりとも親しみが変わってくる。本来、嫂に対して遠慮が生じる。ところがその嫂が亡くなっているので、遠慮なく高峰を搾取することに躊躇しなかったのではないか。高峰のエッセイを読んでいて、叔母の高峰に対する愛情の不足はそう考えることで納得できるように思う。

 叔母にとって姉妹の子どもと兄弟の子どもでは対する気持ちが異なるのだ。

 

 

にんげん住所録 (文春文庫)

にんげん住所録 (文春文庫)

 

 

常盤新平『遠いアメリカ』を読む

 常盤新平『遠いアメリカ』(講談社文庫)を読む。先に読んだ『片隅の人たち』のいわば前編のような連作短編集。「遠いアメリカ」「アル・カポネの父たち」「おふくろとアップル・パイ」「黄色のサマー・ドレス」の4作からなっている。登場人物は共通で翻訳者を志している重吉とその恋人椙枝が中心になる。

 重吉は早稲田大学の大学院に籍を置いているがほとんど出席していない。早稲田のアパートでアメリカのペーパーバックに埋もれている。ペーパーバックや雑誌を買いに渋谷の百軒店の奥にある古本屋をしょっちゅう訪ねている。店のおじさんとも親しくなり喫茶店に誘われてコーヒーをおごってもらったりしている。

 椙枝は俳優座養成所を出て小さな劇団に所属し、女優の卵として定期的に子供向けの芝居の地方公演に駆り出されている。椙枝を紹介してくれた翻訳者が重吉を可愛がって面倒をみてくれている。

 重吉も椙枝もティッシュペーパーがなにか分からない。ハンバーガーもピザも具体的には分からない。アメリカは遠かった。

 「アル・カポネの父たち」で田舎で税理士をして仕送りをしてくれている父親との葛藤が、「おふくろとアップル・パイ」で同じく母親との葛藤が語られる。しかし、重吉は少ない仕送りと言いながらアルバイトもしないでのらりくらりと生活しているように見える。読んでいて、ちょっとふがいないと思ってします。

 それでも「黄色のサマー・ドレス」では、先輩の翻訳者から出版社に推薦され、いよいよ雑誌に載る短編の翻訳を依頼され、単行本の翻訳まで任される。出来上がった翻訳原稿に出版社の担当者から厳しいダメ出しがあって、その訂正のために毎日出版社に通うようになる。ほとんど全文に赤字が入れられ、駄目な点が指摘される。それを3カ月ほども続け、ついに出版される。その後、担当者から編集者として入社を勧められる。重吉は椙枝に結婚を申し込む。付き合い始めて4年が経っていた。

 気持ちの良い青春小説だった。ほとんど常盤の自伝に近いだろう。常盤は「遠いアメリカ」で直木賞を受賞する。でも年譜を見れば、こんなに愛し合った彼女と常盤は離婚している。まあ、常盤が入社した早川書房の社員だった詩人の田村隆一は5回も結婚しているけど。

 

 

 

遠いアメリカ (講談社文庫)
 

 

釈徹宗『天才 富永仲基』を読む

 釈徹宗『天才 富永仲基』(新潮新書)を読む。副題が「独創の町人学者」とある。富永仲基は、江戸時代17世紀に大阪に醤油醸造業の息子として生まれ、懐徳堂に学んだが、病気のため31歳で亡くなっている。

 何冊かの著書があるが、現在まで伝わるのは『出定後語』と『翁の文』、『楽律考』のみ。その『出定後語』は仏教を論じている。富永は仏典を研究し、ほとんどの仏典が釈迦入滅後に説かれたもので、後世の仏教者によって「加上されたものだ」と説いた。加上とは、思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足掛かりにして、さらに先行思想を超克しようとすること。

 富永はさまざまな仏典がどのような順序で成立したか、各仏典の用語を研究して推測していく。仏典は当時すべて釈迦が説いたものだとされていたが、富永の主張どおり、現在では原始経典と言われる阿含経典類でも釈迦滅後200~300年以上を経て現在の形に整えられたものであり、大乗仏典は仏滅後500年も経ってから現れたことが分かっている。

 そのことを17世紀に読み解いたのは富永の大きな業績だった。富永の天才を最初に見抜いたのは内藤湖南だった。大正14年の講演で稀代の天才であると紹介している。ほかにも山本七平井上哲次郎中村元などが富永の天才性を高く評価している。

 本書は漢文の『出定後語』の主要部分を、「読み下し」、「現代語訳」、「大意」、そして解説という順で詳しく紹介している。

 富永仲基といえば、私は加藤周一『三題噺』の「仲基後語」で知ったのだった。加藤も富永を高く評価していた。こんな形で富永が紹介されるのは嬉しいことだった。

 

 ・加藤周一の富永仲基評
https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20101031/1288460956

 

天才 富永仲基 独創の町人学者 (新潮新書)

天才 富永仲基 独創の町人学者 (新潮新書)

  • 作者:釈 徹宗
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

芥川喜好『バラックの神たちへ』を読む

 芥川喜好『バラックの神たちへ』(深夜叢書社)を読む。これはポーラ文化研究所の機関誌『季刊is』に1986年から3年間連載していたもの。14人の日本人画家たちを取り上げている。このころから芥川は読売新聞日曜版の1面に現存の画家を取り上げて紹介する仕事を長年続けている。新聞では多くの読者を対象にしているので、分かりやすい文章が求められる。

 本書はポーラ文化研究所の雑誌に連載ということで、芥川によれば「毎回の締め切りに追われつつ、それでも一語一語、詩の言葉を刻むように作品と作家を書きたいという(儚い)願いだけは、最後まで消えなかったように思う。/いささか調子の強い、ケレン味の抜けない部分が多いのも、いま考えてみればそのせいである」。

 そのようにケレン味たっぷりで、それが本書の魅力となっている。実際かなり難解な文章も多い。

 入江波光「彼岸」について、

 

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入江波光「彼岸」

 描かれたものはひとつの自然だった。かろうじて言えるのは、描いたあなたがその自然のなかに入りこんでいなかったということだ。閑寂な自然をまじまじと見つめ、それをまばらに描く自分の行為をもどこかでまじまじと見ているという、二重構造をもつ意識の皮膜がはっきりとそこには感じられる。むしろそうした皮膜のはたらきによって、あなたの目は常に自然の本質的な閑寂さしか見ていなかったというほうが、当たっているかもしれない。

 その絵は、徹して何かを描くという世界ではなく、たとえば自然の断面にどう触れるか、あるいは現世という時空とどう触れあうかという、その触れ方や接し方の探求にも似た世界だった。もう少し言うなら、それは何か対象を描こうとした絵ではなく、対象が存在する世界への違和感やその前で凝然と佇んでしまう己れの意識をもてあまし、そこを突き出ようとして対象を口実にしたような絵なのである。

 

 

 西郷孤月「台湾風景」について、

 

……最晩年の作と伝えられる『台湾風景』は、その筆が少しも荒廃していなかったことを語っている。微かに移る雲と風のそよぎ、そのなかに包まれる人間のわずかな生の気配は、画家の目そのものの澄みわたった静謐を表している。この疼くような静けさこそ、あなたの見ていた視界の深さを測る唯一の手がかりとして残されたのである。

 

 弧月は大観、春草の仲間で、橋本雅邦の娘と結婚した。だが3年後離縁され、以来日本から台湾を放浪して台湾で発病し38歳で没した。私のカミさんの母親が旧姓西郷で、孤月の一族だった。

 

 

 

 

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』を読む

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1963年の銀座by和田誠

 和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫)を読む。和田はイラストレーターとして有名だが、最初はライト・パブリシティにデザイナーとして入社する。多摩美在学中に日宣美に応募して1等賞を取った。その頃の日宣美はデザイナーの登竜門で、学生で1等賞は快挙だったのではないか。そんなことで銀座にあったライト・パブリシティというデザイン会社から声を掛けられ入社する。

 まだ業界が小さかったので、多くのデザイナーやコピーライター、カメラマンたちと知り合いになっていく。また無償だったが日活名画座のポスターのイラストも手掛けるようになる。それは日活名画座が閉館するまで続いていく。日活名画座伊勢丹デパートの前、いまのマルイの場所にあった。(ホモの名所でもあった)。

 NHKのアニメの仕事も請け負った。趣味で作っていた作曲もプロのピアニストがアレンジしてくれて発表された。専売公社がハイライトを売り出す時、10数人のデザイナーを指定してコンペをしたが、和田のデザインが選ばれた。

 草月会館に草月アートセンターが作られ、和田もそこに通ってさまざまな作家やジャズメン、作曲家たちと交流を深めていく。高橋悠治武満徹黛敏郎など。

 日活名画座のポスターを見たという雑誌の編集者から雑誌の挿絵の依頼を受ける。また東レの退屈な会議中にいたずら描きしていたゾウのイラストをライト・パブリシティで絵本にして出版してくれた。

 篠山紀信が入社してきた。ライトでは新人カメラマンは最初助手の仕事をさせられるが、篠山はいきなり一本立ちでやりたいと言って会社もそれを認めた。三宅一生も入社してきた。

 1964年にイラストレーターズ・クラブを作った。宇野亜喜良横尾忠則柳原良平伊坂芳太良、大橋正、山口はるみなどが参加した。

 そのうち、自分はデザイナーというよりイラストに向いていると自覚する。ライトをやめて独立した。題名が『~ドキドキの日々』とあるが、記述からは順風満帆の日々に思われる。広告業界が発展しつつある時だったので、幸運な時代を経験していったのだろう。

 ライト・パブリシティ―は今も銀座7丁目のうしお画廊と同じ通りに小さいが瀟洒なビルを構えている。

 

銀座界隈ドキドキの日々 (文春文庫)

銀座界隈ドキドキの日々 (文春文庫)

  • 作者:和田 誠
  • 発売日: 1997/01/10
  • メディア: 文庫