今村仁司『マルクス入門』(ちくま新書)を読む。昨年読んだものだが、印象に残ったところを書き留めたい。
歴史は自然的因果律による決定のようにつくられるのではなく、人間的主体(個人と集団)の行動によってつくられる。主体もまた自分のつくった歴史によってつくりかえられる。ここからルカーチはエンゲルスの「自然弁証法」を批判する。ルカーチはヘーゲルから弁証法の適用範囲を学んだから、弁証法が人間的主体の行動のあるかぎりにおいて成り立つのであって、人間的主体が関与しない自然には弁証法は適用できないという。これはヘーゲル理解にとってもマルクス理解にとってもきわめて重要な指摘である。
(中略)しかし自然のなかに弁証法を認めるというヘーゲルの議論は、初期ヘーゲルの弁証法思想と矛盾しているし、まさにそこにヘーゲルの「ささやかな」ミスがあったといえる。エンゲルスに反対して、ルカーチは初期ヘーゲル(『精神現象学』)の弁証法に依拠して弁証法の精神を復活させたのである。これは初期マルクスの精神の復権でもある。
ヘーゲル-マルクス関係についてルカーチの独自な着眼がどこにあったのか。第一に、ヘーゲル的な歴史の理性(または絶対精神)をマルクス的な集団的(階級的)理性すなわち階級意識に変換したことである。いまやヘーゲルの「精神」は、プロレタリアートの「対自的な階級意識」に変貌する。ヘーゲルにとって歴史的理性が歴史をつくり変革する。それと同様に、ルカーチ的階級意識が歴史をつくり変革する。この構図を設定することによって、ルカーチは安んじてヘーゲル弁証法をマルクス弁証法として転用することができたのである。
哲学の面では、ルカーチがはじめて着目したマルクスの物象化概念は、フランクフルト学派によって共感的に受け入れられる。物象化は、マルクスの場合には(『グルントリッセ(経済学批判要綱)』と『資本論』第1巻)主として経済的概念である。経済的物象化は商品と貨幣のフェティシズムとほぼ同義である。マルクスによれば、人間と人間の直接的な社会関係は商品経済においては物と物との関係になり、物体的な物がそれ自体のなかに観念的な価値をもっているかのように人々に受けとめられ、また人々は物が最初から価値をもつかのように信じている。
これはアフリカの土着民の原始的宗教現象(フェティシズム、呪物崇拝)と同一の構造をもつのだから、マルクスはこれを商品経済に転用して商品のフェティシズム的性格と命名し、この現象の転倒性を物象化とよんだ。ルカーチは物象化を経済のみならず文化一般、とくに階級的立場を自覚しない「思想的」意識にまで拡大する。これによってルカーチはイデオロギー批判を文化批判にまで拡大する可能性を与えた。
(……)構造ではなく、「関係の第1性」を基礎論にして独自の哲学を打ち出し、その観点からマルクスを批判的に読み直した人が、廣松渉である。彼はヘーゲルとマルクスに共通する「関係する行為」を人間のすべての行為にまで拡大し、緻密な分析を加えた。彼のテーゼによれば、社会関係のアンサンブルは「世界の共同主観的存在構造」である。彼は主著『存在と意味』(全2巻、岩波書店)のなかで、関係を四肢構造として定義し、この原初構造が人間の相互行為のあらゆる場面を例外なく貫徹することを「認識論的=存在論的」に叙述した。当然ながら、経済社会における人間の相互行為を描いた『資本論』もまた「関係の第1次性」または「四肢構造」から読み解かれた。廣松のマルクス解釈は、その議論の緻密さと徹底性において瞠目するに値する。ヘーゲルやマルクスが頻繁に使う表現法、すなわち「として妥当する(gelten als)」または「として―構造」を廣松ほど厳密に展開したものはいない。彼のマルクス論は、アルチュセールの構造論的接近とは性格を異にするが、着眼の共通性によって第3類型に加えることができる。



























