小山登美夫ギャラリー京橋の菅木志雄展を見る

 東京京橋の小山登美夫ギャラリー京橋で菅木志雄展「“もの”の奥で」が開かれている(7月18日まで)。菅木志雄は関根伸夫、李禹煥らとともに「もの派」の代表的な美術家だ。今回の個展の作品は洗練された造形を示している。


 もの派は関根伸夫の公園に円筒形の穴を掘り、その土を穴の隣に円筒形に積み上げた「位相―大地」から始まり、李禹煥の鉄板に大きな石を置いた作品など、従来の美術を批判するような作品を提示してきた。それらは強い印象を与え、もの派は大きな美術運動となった。

 彼らの成功は画商も取り上げることになり、当然画商は売りやすい形を求めただろう。関根伸夫は屋外に設置する抽象彫刻から、モニュメントの制作に進み、そのモニュメント製造会社を立ち上げて一時は社員40人を抱えるまでに至ったという。その会社は中国、韓国にまで手を伸ばした。関根の作品は美術世界ギャラリーが扱うようになった。そのギャラリーは統一教会のギャラリーだった。

 銀座2丁目の立派なビルに入っていたそのギャラリーには壺が並べられており、関根は「位相―絵画」という作品を並べていた。「位相―絵画」はキャンバスに穴を開け、その剥がした部分を穴の横に貼り付け、キャンバス全体を金箔で覆ったゴミみたいな作品だった。

 李禹煥は版画やドローイングを量産した。鉄板に石を置く作品の展開は難しかっただろうし、画商からは売れる作品を求められただろう。

 今回の菅木志雄の作品は洗練された造形を示している。洗練された造形は初期の荒々しいインスタレーションの姿を忘れ、ひたすらデザイン的、装飾的な方向に走ってしまっているのではないか。画商が売りやすい「見事な造形」に陥っているように見える。それは「もの派」の精神を忘れているのではないだろうか。

 

 

・長谷見雄二氏による菅木志雄論

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2025/07/30/205506

 

 

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菅木志雄展「“もの”の奥で」

2026年6月12日(金)-7月18日(土)

11:00—19:00(日月祝日休廊)

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小山登美夫ギャラリー京橋

東京都中央区京橋1-7-1 戸田ビル3F

電話03-3528-6250

 

ギャラリー58のハモニカ佐藤展を見る

 東京銀座のギャラリー58でハモニカ佐藤展「作業療法」が開かれている(7月4日まで)。ハモニカ佐藤は1951年高知県生まれ、1971年航空高専機械工学科を修了している。最近はK’sギャラリーやギャラリーQなどで個展を開き、1922年からは毎年ここギャラリー58で個展を続けている。

 佐藤の言葉、

負傷した肩のリハビリとして始めた絵画です。医師からのリハビリ法は退屈極まりなく、自分で考案した作業療法の結果がこの作品で、5年間続いています。



 パネルに鉛筆で描いている。おそらく紐の先に鉛筆を結んで、コンパスのように同心円を描いているのだろう。肩を回すからリハビリにもなる。そのような方法によって、ある種のミニマルアートにもなっている。サイズもあって力強い作品だ。

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ハモニカ佐藤展「作業療法」

2026年6月29日(月)-7月4日(土)

12:00—19:00(最終日17:00まで)

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ギャラリー58

東京都中央区銀座4-4-12 琉映ビル4F

電話03-3561-9177

http://www.gallery-58.com

 

ギャラリイKの近藤祐生展を見る

 東京京橋のギャラリイKで近藤祐生展「臨界の建築」が開かれている(7月4日まで)。近藤祐生は2006年大阪生まれ、5歳から13歳までタイとアメリカに移住。2024年早稲田大学創造理工学部建築学科入学。2023年からギャラリイKのグループ展に参加、今回が初個展となる。

 近藤のテキストから、

 都市の建築は強固で安定した存在として認識されている。

 しかし実際には、建築は常に不安定な存在である。

(中略)

 本展では、「建築は安定している」という幻想に対して疑問を投げかける。作品では、コンクリートという本来は重量と安定を象徴する素材を用いながら、それらが崩れかけ、浮遊し、断裂し、不均衡な状態に置かれる。建築が持つ物理的な不安定性だけではなく、社会・経済・記憶によって支えられている仮設的な存在としての建築を表現する。

 破壊は建築の終わりではなく、その本質を露呈する瞬間である。

 本展は、現代都市が覆い隠している建築の脆さを可視化する試みである。

 


 展示については近藤祐生のテキストに正確に記されている。これが初個展とはすばらしい。

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近藤祐生展「臨界の建築」

2026年6月29日(月)-7月4日(土)

11:30-18:30(最終日は17:00まで)

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ギャラリイK

東京都中央区京橋3-9-7 京橋ポイントビル4F

電話03-3563-4578

http://galleryk.la.coocan.jp

 

 

佐高信『昭和に挑んだ作家たち』を読む

 佐高信『昭和に挑んだ作家たち』(平凡社新書)を読む。「はじめに」で佐高は書く。

 ここに取り上げた20人は、端的に言えば「国民作家」と呼ばれることを拒否する。アンチ司馬(遼太郎)の作家たちと言ってもいい。誰にでも好かれようと思わない人たちを選んだつもりである。

 

 そして「おわりに」では、

 ここで取り上げた20人は、三島由紀夫や大江健三郎、あるいは丸谷才一を除いて、いわゆる純文学の作家ではない。大衆小説と呼ばれる作品を描く作家たちである。

 

 その三島、大江、丸谷以外の17人は、藤沢周平、池波正太郎、西村京太郎、井上ひさし、五木寛之、城山三郎、清水一行、梶山季之、中園英助、山崎豊子、五味川純平、澤地久枝、吉村昭、森村誠一、金時鐘、筒井康隆、山田太一だ。

 こう並べられて私がいかに小説、殊に大衆小説を読んでいないか気がついた。この17人のうち、少しでも読んだのは、井上ひさし(主として戯曲)、五木寛之(もう50年前)、筒井康隆(多少は読んだ)、池波正太郎(グルメ本)、梶山季之(『李朝残影』)、西村京太郎(『十五歳の戦争』)くらいだった。

 ほとんど読んでこなかったので、本書の紹介は貴重だった。いくつか読んでみたい本が見つかった。そういう意味では参考になった。

 ただ、厳しいことを言えば、直前に加藤周一を読んだばかりなので、佐高の文体の軽さが気になった。例えて言えば、加藤周一が緞帳の文体なのに対して、佐高信のそれはレースのカーテンのようだった。行間を風が吹き抜けている。いや加藤周一に比べたら可哀そうかもしれない。

 大衆小説なら、立原正秋を入れても良かったのではないかと思った。

 

 

 

 

『加藤周一セレクション 1』を読む

 『加藤周一セレクション 1』(平凡社ライブラリー)を読む。全5巻の1巻目で、副題が「科学の方法と文学の擁護」とあり、「科学と文学」、「文学の擁護」について詳しく語られる。ここまでで本書の半分になる。「文学の擁護」では加藤の見事な論理的な文体を楽しむことができる。プルーストが高く評価される。私も『失われた時を求めて』は読まねばならないと思った。必要最小限の言葉で十分な主張をする。昔からこのような加藤の文体は憧れだった。

 「途絶えざる歌」では、フランスの近代詩人たちが紹介される。ルイ・アラゴンについては特に詳しく、評価も高い。それらの詩は日本語訳とフランス語の原詩が並べられる。

 一度マラルメをよめば、その他の一切の詩句はほとんど読むに堪えないという意味のことを、ヴァレリーはいった。ヴァレリーの詩論は、それ自体完璧な体系である。思考の感受性の、およそ精神のあらゆる作用の方法論的体系。かつてこれほど完璧な詩論はありえなかったし、またかつて、「若きパルク」や、「海辺の墓地」よりも完璧な詩句はありえなかった。

 

 続いてゴッドフリート・ベン、グレアム・グリーン、E.M.フォースターが取り上げられ、最後にサルトルについて語られる。ゴッドフリート・ベンについてはナチを支持したとして批判的に取り上げられる。

 私の最も好きな作家グレアム・グリーンについてこんなに詳しく語られていて嬉しくなってしまう。グリーンはカトリシズムの作家で、その『情事の終り』や『事件の核心』が分析される。私は高校の頃『情事の終り』を読んで、それ以来60年に渡ってグリーンのファンでいる。あの最高傑作を高校生の時に読んだという幸せ。

 グリーンの3部作(『情事の終り』、『事件の核心』、『居間』)は、いずれも三角関係を扱い、一方では、夫婦関係の不可能を証明し、他方では、姦通に具体化された自発的な愛の限界を、証明しているように思われる。人間的な愛情は、当事者の誠実さの度合いに応じて悲劇的なものとなる、——ということが、その哲学であるとすれば、その哲学は絶望の哲学である。しかし、絶望の高貴さの哲学である。「絶望することのできる」人間、「悪人の決して犯さない罪」を犯す人間、——善意の人間には、必ずしも平和がないと、グリーンはいっているように見える。もし聖者でなければ、——しかし聖者とは、自己放棄によって、人間的価値の限界を超えた者である。

 

 加藤周一セレクションはすでに4冊を読んでいる。残りは第4巻だけだ。