宮本常一『私の日本地図1』を読む

 宮本常一『私の日本地図1・天竜川に沿って』(同友館)を読む。宮本が天竜川の河口から川をさかのぼって天竜川の始まりの諏訪湖までを旅した記録。正確には一度に旅したわけではなく沿線を何度も歩いたものを1冊の本にまとめたもの。
 宮本が撮った写真がほぼ全ページの半分を占めている。宮本はオリンパスペンというハーフサイズのカメラを持ち歩いて、記録として撮っていた。民俗学者の眼で見たちょっと遅れた地域を記録している。本書では天竜川沿線でも静岡県側の記載が多いが、長野県側は伊那谷にあたる。ふつう川は源流から川下まで谷が徐々に広がって行って、それに伴って文化も下流ほど栄えることになる。ところが天竜川は静岡県と長野県の境あたりが谷が狭くなっており、長野県側の谷はかなり広く文化も栄えていた。それは特殊なことらしい。
 天竜川には天竜下りという小舟で川下りを楽しむ遊びがある。天竜下りは昔は天竜峡という峡谷をしぶきに濡れながら下っていったものだったが、ダムができて流れが緩やかになり、現在は飯田市の北の高森町市田から天竜峡駅までの川を下っている。

……天竜峡駅から北は谷もずっとひらけて、ほんとにひろびろとして来る。そして川の右岸(西側)には4段も5段もの河岸段丘が発達しており、それぞれの段丘上に集落が発達する。しかし伊那谷の西を限る木曽山脈に源を発する川が、この段丘を横切って天竜川におちるところ、深い侵蝕谷をつくって段丘をたちきっているのである。しかもその川は日ごろ流量はきわめて少なく、石ばかりがごろごろと川原にころがっている。この川は雨がふると大変あばれる。西の山々はその峰がいずれも2000メートルをこえる急峻なものであるが天竜川の川面は海抜400メートル余である。この峰と川までの間は直線距離にして12キロ。その12キロの間の落差が1600メートルもあるのだから、山に降った雨はすごい勢で急流を走って天竜川におちこむ。そのとき石も砂も容赦なく押しながしてゆく。雨がやむと水のかれた川になる、こうした支流を何十というほど受け入れている天竜川はおのずから土砂にうずもれた広い河原を持つことになる。そしてその川は大雨の降るときかならずといっていいようにあばれる。

 それらの支流が暴れたのが昭和36年6月の集中豪雨だった。飯田地方では36.6災害と呼んでしっかり記憶されている。そのことを宮本も書く。

 母なる川天竜、それはまたはげしく怒ることがある。昭和36年6月29日の洪水はまさにそれであった。このときは27日から29日までに523ミリ降った。それは雨というようなものではなかった。水がそのまま天からおちて来たのである。山はくずれ、川は荒れ、田畑は砂に埋もれ、家はこわれ、人は死んだ。飯田の町からはるか東に南北につながる赤石山脈をのぞむと、山肌にひっかいたようなあとが無数に見えるのは山崩れのあったところなのである。その土砂が水とともに押しながされた。それをうけるのはただ1本の天竜川である。その水をうけきれるものではない。

 私も当時中学生だったのでこのときのことをよく憶えている。近所の山が崩れ何軒もの家が土砂に埋まって下敷きになって人が亡くなった。土砂崩れのことを山が抜けると言った。
 山本弘もこの災害を経験している。飯田市と山本の住んでいた隣りの上郷村境を野底川が流れていた。宮本が書くように普段ほとんど流量が少ないこの川を濁流が流れ下った。堤防は決壊し土砂や大きな石が畑や家を襲った。そのことは山本に強い記憶となって残り、何度も作品のテーマとして描きつづけられた。ただ山本は写実画家ではないので、災害のテーマはさまざまな形で作品に再現されているようだ。

 ここに掲げた油彩作品も山本弘がその野底川を濁流とともに大きな石が押し流されているのを描いたものではないか。大きさはF6号、制作年は1977年(昭和52年)だ。洪水からすでに16年たっていた。山本はこの4年後に亡くなった。


私の日本地図〈第1〉天竜川に沿って (1967年)

私の日本地図〈第1〉天竜川に沿って (1967年)