鳶職は堅気ではなかったのか

 若い頃テキ屋の親分の襲名披露に出席したことがある。なに、使役させられただけだ。当然全国のテキ屋の親分衆、博徒の親分衆が集まった。そして驚いたことに鳶の頭たちも参加したのだった。テキ屋博徒もヤクザと一括りにされる堅気ではない人たちだ。鳶も堅気ではなかったのか! 年末にデパートの松飾りをしている鳶の人たちが。いやまさか鳶がヤクザとは思わないが、テキ屋の親分の襲名披露に博徒とともに参加するとは思わなかった。
 ちなみに元来「博徒」は賭場を開いてその上がりを収入源とし、「テキ屋」は露天商を管理してそのショバ代を収入源としていた。このショバは場所をひっくり返したものだ。同じ様に、上野はノガミ、新宿はジュク、池袋はブクロ、有楽町はラクチョウ、宿はドヤなどと言った。家をヤサと言ったのはなぜだろう。
 また管轄範囲を博徒はシマと言い、テキ屋は庭と言った。面白かったのは、以前住んでいた公団住宅で毎年夏祭りをしていて、公団の管理する広場では団地自治会が屋台を出していた。生ビールや焼きそば、おでん、綿飴などだ。ところが、広場を取り巻く公道はテキ屋が管理して、自治会も手出しはできなかった。そこには露天商が屋台を並べていたのだった。