沼野充義の翻訳論、または亀山郁夫批判、そして日夏耿之介小論

 沼野充義東京大学出版会のPR誌「UP」2月号に「薄餅とクレープはどちらが美味しいか? ーー翻訳について」というエッセイを寄せている。まず最初の小見出しが「『カラマーゾフの兄弟』がこんなに読みやすくていいの?」として、亀山郁夫の新訳が読みやすいことに触れている。翻訳は原作に忠実なものと読みやすさの二極に分かれる。ついで「薄餅からクレープへ」の小見出しで、カラマーゾフの翻訳で亀山郁夫が「クレープ」と訳したものを他の訳者のものと比べている。米川正夫が「薄餅(ルビがプリン)」、小沼文彦が「パン・ケーキ」、原卓也が「ホットケーキ」だ。原語は「プリヌィ」でロシア独特の家庭料理。
 つぎの小見出しが「あえて『こなれた』現代語に逆らう」として、大江健三郎の最新作のタイトルに言及している。

 例えば、大江健三郎の最新長編の「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」(新潮社)というタイトルには、正直なところ、ほとんどぎょっとさせられた。作者自身の分身とおぼしき人物を語り手にし、ナボコフの「ロリータ」やエドガー・アラン・ポー、T. S. エリオットの詩への言及をふんだんに盛り込んで構築される大江氏独特の私小説的メタ文学の手法はいよいよ冴えているが、ここで改めて印象づけられたのは、表題に使われているポーの詩の日夏耿之介による訳文のすごさである。日夏といえば、「すべての訳語は、それが翻訳者自身の創作であり翻案である限りに於いて価値をもっている」と断言し、雅語や古語を駆使した難解で耽美的な訳詩をみずから実践した文人である。幼くして死んだ美少女のことをうたったポーの有名な「アナベル・リイ」の日夏による翻訳もまたじつに見事なもので、若き日の大江健三郎の胸に焼きついたというのもうなずけるが、あらためてポーの原文を見ると、その単純で優しい(まるで童謡のような)言葉遣いと、日夏のーーやはり音楽的ではあるがーー呪文のように晦渋で古風な文体との間の落差の大きさは衝撃的である。日夏が「臈たし」と訳しているのは、英語では単にbeautifulだし、「油雲(いううん)風を孕みアナベル・リイ/そうけ立ちつ身まかりつ」に対応する原文は"…the wind came out of the cloud, chlling/And killing my Annabel Lee"である。日夏による創元社版「ポオ詩集 サロメ」が出版されたのは昭和25年のことだが、その時点でも彼の日本語はすでに突拍子もないくらい反現代的で異様なものだったはずである。
 つまり文体論的レベルで比較した場合、ポーの原詩の平明さは日夏の訳では保たれておらず、はるかに格調の高く非日常的な文体に「創作」し直されているのであり、語彙の選択以上に、文体的に大胆きわまりない確信犯的「誤訳」になっているといえるだろう。しかし、彼はそれこそが本来の翻訳だと信じ、その華麗な訳文によって同時代のだらしなくわかりやすい日本語を揺さぶったのだ。
 日夏の例は極端なのでこれを基準にして翻訳一般を論ずることは難しいが、大江氏の小説にはもう一つ、ごく単純だが印象的な引用が出てきて、ひょっとしたらこちらのほうが翻訳論にとっては示唆的かもしれない。それは「なんだ、君はこんなところにいるのか」というもので、英語の"What! are you here?"の訳だというのだが、じつはT. S. エリオットの「リトル・ギディング」の引用で、訳文は西脇順三郎のものだ(エリオットの原文の背後には、さらにダンテの「神曲」が響いているようだが、その点はここでは措く)。別にどうということもない、簡単で透明な文章ではあるが、私はここにある種の「翻訳くささ」を感じる。はたして普通の日本人が、自然な会話で「なんだ、君はこんなところにいるのか」といった文体で話をするだろうか? 自然な会話だったら(そして、「こなれた上手な」翻訳だったら)「君は」といった二人称の代名詞は省略したほうが無難なのだが、問題はこの原文ではyouがイタリックで強調されているため、容易には落とせないということだ。いずれにせよ、このような会話で二人称を「君」で強調するような言い方自体、日本語の規範を微妙に揺さぶるものであり、じつは翻訳というものはいかに「こなれて」いるように見えようとも、そういった規範からの逸脱の連鎖によって、日本語を少しずつ異化する機能を果たしてきたのである。

 長い引用になったが、最後にまとめが来る。小見出し「『第三の領域』を目指して」

 最後に、翻訳論となると誰もが引用するベンヤミンの「翻訳者の使命」を少し引き合いに出してみよう。(中略)
 そう考えた場合、私なりの見方では、翻訳には3種類の基本的なストラテジーがありうる。第一に翻訳先言語に焦点を合わせ、異質な要素を翻訳者の文化の文脈に「適応」させてしまうもの(これをアメリカの翻訳理論家ローレンス・ヴェヌティは「馴化」と呼んでいる)、第二に、あくまでも言語への忠実さを目指すもの、第三にいわばその両者の間にあって、両者を媒介するもの。第一のタイプは「カラマーゾフの兄弟」の新訳に代表されるような、いわゆる「こなれた」翻訳で、「同化的」と呼ぶことができる。第二のタイプは学者やある種の文体的実験を目指す翻訳家によって実践されるもので、「異化的」な作用をもたらす。第三の「媒介的」なタイプは、翻訳者の母語と外国語の間を媒介し、そこにいわば第三の言語を作ろうとするものだ。無論、この第三の言語とはユートピア的なもので、現実にはベンヤミンのいう「純粋言語」同様、存在しないのかも知れないが、私はその媒介的な場で展開するものこそが「世界文学」と呼ばれるに相応しいと考えている。

 見事な亀山郁夫批判であり、また翻訳論である。驚嘆したことだった。