三枝昂之『百年の短歌』(新潮選書)を読む。年末の毎日新聞書評者の「今年の3冊」で東直子が推薦していた。
東直子選
『百年の短歌』三枝昂之(新潮選書・1815円)
百年の間に生まれた名歌を多様な切り口で分類しつつ、一人一人の書き手の特徴を詳細に伝える。中央歌壇で活躍した歌人だけでなく、文学者や科学者、投稿歌なども取り上げ、短歌の裾野を広げる力のあるアンソロジーである。
百年間の105人の歌人を取り上げ、一人につき見開き2ページで紹介している。確かにとても素晴らしいアンソロジーだ。何点か紹介する。
沢瀉(おもだか)は夏の水面の白き花 孤独死をなぜ人はあはれむ 雨宮雅子
人知れず世を去る。その静かな死を人はどうしてあわれむのでしょう。水面にひっそりと咲く沢瀉の健気な生の営みと少しも変わらないのに。
孤独死はむしろごく自然な事態ではないのか。提出歌はこう述べ、その静かで揺るがない思いを縁取る沢瀉のシンプルな白さが味わい深い。
秋の始まりは動物病院の看護婦(ナース)とグレートデンのくちづけ 穂村弘
いまの若手にとって短歌の世界は穂村弘から始まる。極端にいえば、彼らは穂村より前の世代は眼中にない。その理由はどこにあるのだろうか。
終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
例えばこの歌の〈降りますランプ〉のぴったり感だろう。これが「降車ボタンに囲まれながら」であればごく普通の表現、若者たちにはスルーされるだろう。
身近な風俗を今日的な感触にリニューアルする。そこに穂村の吸引力があり、季節の歌にもその特徴は生きている。
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる 萩原慎一郎
……お互い非正規であることを確かめ合いながら牛丼を食べる。安くてすぐに出てきて、結構おいしい。牛丼はランチに不可欠と若者に聞いたことがある。そのささやかな連帯感をいたわるような「秋がきて」から、ほんのり切ない詩の香りが広がる。
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄
歌が示すのは革命歌の作詞家が得意げなポーズでピアノに寄りかかる図、それに反応してピアノが溶け出してしまう図である。ダリを思わせるその図からは戦後に広がった革命幻想への侮蔑が滲み出す。いま読めば図式的すぎる構図と感じないこともないが、なぜ塚本はこの主題を選んだのか。
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています 東直子
提出歌はなにがきれいだったのか。読者はあれこれ手探りを強いられる。大曲の花火、残雪の岩手山を背景にした小岩井農場の一本桜。いやいや、小鳥と向き合う孤独な気配からは誰かの晴れ姿など賑やかな人事が相応しいか、などなど。
実はこの歌の上二句、松田聖子が結婚したときに元カレの郷ひろみが漏らした言葉。それを活用した、と東さん本人が教えてくれた。するとこの下の句、広い曠野に独り佇む郷ひろみの心象とも読めるが、補助データなしに向き合うのも大切。見えてくるのは華やぎの外にいる黙々たる暮らし。それも悪くないのでは。
優れた短歌のアンソロジーだ。一家に一冊と言いたいほどに。
