穂村弘『ぼくの短歌ノート』(講談社文庫)を読む。穂村がおもしろい短歌を取り上げて解説を加えている。穂村が選んだ短歌だからマジ面白い。「コップとパックの歌」とか「賞味期限の歌」とか「高齢者を詠った歌」とか46のテーマに分けてそれぞれ数首を取り上げて的確な解説を加えている。
「賞味期限の歌」より
四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は 藤島秀憲
作者の歌集『すずめ』には、高齢の父親との生活が詠われている。長い長い介護の果てに、父と息子の生活に最後の時がやってくる。「四百円の焼鮭弁当」の「賞味期限」によって、実感の持てないその時がくっきりと意識に浮上する。なんとも痛切な歌だ。微かに漂うユーモアが、裡なる悲しみを一層強く感じさせる。
「花的身体感覚」より
年下も外国人も知らないでこのまま朽ちてゆくのか、からだ 岡崎裕美子
作中の〈私〉は年上の日本人としかセックスをしたことがないのだろう。恋愛という心と体の共同作業の結果として、おそらくは自然にそうなっているのだ。しかし、或る日、心を切り離した「からだ」という観点から自らの過去と未来を思ったとき、不意に焦燥感が浮上してきた。「このまま朽ちてゆくのか」と。
「するときは球体関節」より
したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ 岡崎裕美子
「した後の朝日はだるい」という表現にインパクトがある。明示されていない行為はセックスだろう。伏せられることで、読者は一層それを強く意識する。
そして、「自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」で、性交後の体を「撤去予告」を受けた「自転車」のようなものと感じている。二人の関係に未来はないととらえている。
続いて、
脱がしかた不明な服を着るなってよく言われるよ 私はパズル 古賀たかえ
(……)「脱がしかた不明な服を着るな」という男たちの自己都合に基づく発言に対して、でも、私はこういう服が好きだから、とか、可愛い服が着たいから、といった返し方をしていないところが興味深い。男女の非対称的な性的コミュニケーションにおいて、そのようなまともさは通用しないことが直感されているのだろう。その代りに提示された「私はパズル」とは、自らを敢えてモノ化することで主体性を確保するという離れ業であり、そこから貴男にとって私は永遠の「パズル」=謎=他者である、という裏返しの自負を読み取ることができそうだ。
「身も蓋もない歌」より
「百万ドルの夜景」というが米ドルか香港ドルかいつのレートか 松木 秀
「デジタルな歌」より
『潮騒』のページナンバーいずれかが我の死の年あらわしており 大滝和子
この歌に初めて出会ったときの衝撃は忘れがたい。当然の事実を余りにも思いがけない角度から突き付けられて混乱した。どの本にも置き換え可能に見えつつ、『潮騒』の無限感覚の中の「ナンバー」であることが効いている。
「間違いのある歌」より
誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど 大松達知
「それでいいかもしれないけれど」に、ちょっと意外性とリアリティがある。この物件に決めるとなると、〈私〉の年齢にもよるけど、一生をかけても自宅から駅までせいぜい2往復か3往復ってところか。人生の殆どが旅になる。なるほど、それも悪くはなさそうだ。
こんな調子で続いている。選ばれた短歌も面白いし、解説がよくできている。
- 作者: 穂村弘
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/06/14
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