大日本帝国の奇形児たち

 深作欣二の「死は御破算、それが核となって」を読んだ。週刊朝日偏『ひと、死に出あう』(朝日選書)に収められている一篇だ。本書には67人の死に関するエッセイが収録されている。

 深作欣二はわが師山本弘と同い年の1930年生まれ。終戦に関して山本弘と似たような経験をしているのではないかと読んでみたが、正に山本弘が書いたとしてもおかしくない内容だった。ダイジェストして引用する。

 映画監督深作欣二は50数本撮った映画のうち、死体の出てこない映画は1本しかない。その理由を深作は中学3年の時の体験に由来するもののようだと書く。深作欣二この時15歳。

 

 昭和20年7月のある朝、私は勤労動員先の兵器工場で、初めて大量虐殺の現場を見た。

 アメリカ機動部隊の艦砲射撃で一夜のうちに廃墟と化した工場跡の瓦礫の中には、夜間作業のために逃げ遅れた20数人の工員たちの首、手足、胴体、内臓、その他、どの部分のものとも知れぬ肉片がバラバラに飛び散っていた。

 私たちはそれらを一つ一つ拾い集め、急ごしらえの粗末な棺におさめて、工場裏の空き地に仮設された火葬場へ運んだ。粗削りの杉板のすき間からは、死者の体液が牛のよだれのように流れ出して、悪臭とともに私たち担ぎ手の首筋や肩を濡らし、私たち自身の汗とまじり合って、背や腹の中にまでつたい落ちた。級友全員がゲロを吐いた。しかも棺を担いだままだったので、口からほとばしるものを拭うこともできなかったが、何がどうなろうと大した違いもなかった。やがて積み上げた薪の上に棺が並び、ガソリンがまかれ、火が放たれた。黒煙が渦巻き、人肉の焼けるなまぐさい臭気が立ちこめ、またしてもこみあげてくる吐き気に悩まされながら、私たちは表情を閉ざし、木偶人形のように立ちつくした。内心ひそかにこんな悪たいをつぶやきながら――。

(馬鹿にしやがって、こんなざまでなにが聖戦だよ、靖国神社だよ、天皇、政治家、軍人、役人、学者、教師たち、今までおまえらが言ったり書いたりしてきたことは、何から何まで嘘っぱちじゃねえか……)

 しかし、誰もそれを声にする勇気はなかった。それどころか、当時すでに全滅したと伝えられていた沖縄の中学生や女学生たちと同様、遠からず上陸してくるアメリカ軍の十字砲火によって、粉みじんに吹き飛ばされて死ぬのだ、とあきらめていた。

 連日の無差別爆撃や機銃掃射の合間、防空壕の中で私たちはささやき合った。

「どうせなら直撃弾がいいな。痛いなんて感じるひまもなく御破算だからな……」

 その頃の私たちにとって、〈死〉はまさしく御破算であった。カチャというソロバンの一振り、人間の生死なんてそんなものさ。こういうヤケクソな認識しか、私たちには持ち得ようもなかったのだ。

 そう言いながらも、至近弾の炸裂のたびに私たちは争って級友の体の下へもぐり込もうとした。生への執着とか死への恐怖とかいうほどのものではない。ただの瞬きのような反射的な行動だった。だから空襲が終わると私たちはモゾモゾと起き直り、お互いの行為を非難することもなく、すりむいた手や肘などを舐めながら、無感動な顔でうずくまるのだった。あとはただ、容赦なく近づく最後の時を待つだけであった。

 思えば私たちは、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く〈虐殺の時代〉に、ただ殺し殺されるためにのみ生み出された〈大日本帝国の奇形児たち〉だったのである。

 しかし、それから1カ月後、奇妙な音声のラジオ放送とともに、アッケなく戦争は終わった。

 カッと照りつける太陽の下で、私たちは学校の焼け跡に腰をおろし、生き残った感動などこれっぽちもなく、ただうんざりと気が遠くなるような未来を思った。もの心ついて以来、「死にゃいいんだろう」と居直り続けてきた奇形児たちは、死ぬことはあまり恐れなかったが、生きるとはどういうことか想像もつかなかった。今までその意味や仕組みを教えてくれたおとなたちは、ただの一人もいなかったのだから。

(中略)

 おのれの内部によるべき核がなければ、表現などという仕事はつとまりはしない。その核が、私にとっては「死」だった。あの夏の日、私たちの手に残骸をゆだねた「死者たち」であった。