奥泉光・群像編集部 編『戦後文学を読む』が面白い

 奥泉光・群像編集部 編『戦後文学を読む』(講談社文芸文庫)を読む。戦後作家9人を取り上げてそれぞれ奥泉と2人の作家の鼎談で評論している。奥泉以外は毎回別々の作家が参加している。取り上げられる作家9人は、野間宏武田泰淳椎名麟三梅崎春生大岡昇平石原吉郎藤枝静男小島信夫大江健三郎で、大江を除いてそれぞれ2作が取り上げられる。大江だけが「芽むしり仔撃ち」の1作のみ。
 大岡、大江、石原はそれでもたまに読み直していたが、それ以外の作家は昔読んだきりもうほとんど手に取ってこなかった。藤枝に至っては一度も読んだことがない。
 最初に奥泉と高橋源一郎の対談があるが、その時編集部から、多くの人がドストエフスキー夏目漱石太宰治のような近代小説は読んでいるが、その後村上春樹くらいまでの戦後文学が抜けているという指摘があった。それで戦後文学に再び光を当ててみたいというのが趣旨のようだ。もっとも高橋も奥泉も戦後文学はよく読んでいるようだが。
 鼎談に参加している作家は、一番若いのが朝吹真理子1984年生まれ)、島本理生(1983年)、青山七恵辻村深月がともに1980年、年齢の高い方から、高橋源一郎(1951年)、奥泉(1956年)、ほかに50年代生まれは保阪和志、松永美穂佐伯一麦、ついで1960年の山城むつみと1961年の島田雅彦になる。参加した21人の作家たちの読みの水準が深いのに驚いた。若い作家の読解力を見くびっていたとしたら恥ずかしい。
 ここに取りあげられた戦後作家を私も読み返してみたいと思った。ほとんど40〜50年前に読んだきりで、おそらく自分の読解力も当時より深まっているのではないか。とくに大岡昇平石原吉郎はきちんと読み直す必要がある。
 9人の作家のうち、最も評価が高いように思われたのが大江健三郎だった。評者がそれぞれ異なるので一概には言えないが、大江を論じた野崎歓町田康、それに奥泉の読解を読んでとくに初期のものを読み返したいと強く思った。
 大江健三郎では「芽むしり仔撃ち」が取り上げられている。それを巡って、

奥泉  ……日本の近代小説では、描写の抒情性を生み出していくやり方が基本にあって、それは要するに、共同体から離れて孤独になった人間が、単独で世界を見る構造だと思うんですよ。つまり、既存の人間関係から切り離されて、旅に出て漂泊する。共同体から遊離した人間が世界を眺めたときに、目に映る風景のしみじみした美しさを描くというのが、僕は日本語の近代小説の抒情性の基礎をなしていると思うんです。それが悪いという意味ではなくて、今もそういう小説はたくさん書かれています。
 でも、「芽むしり仔撃ち」の輝いている部分はそうではない。李少年や脱走兵も含めて、少年たちが一つの共同体を作っていく。共同体を再生して、束の間だけれども、連帯を実現したときに輝く世界が描かれている。そこに僕は感動しました。
 人と人が結び合ったとき、彼らの目に映る世界の輝き。それははかないものだけれども、小説の中に一瞬定着させている。こういう種類の美しさは今に至るまでほとんど書かれていなかったのではないか。

奥泉  「芽むしり仔撃ち」の主人公が、この後どうなるか。多分どうにもならない。彼は最後本当に孤独です。弟もいなくなり、恋人も死んでしまい、一人で逃げている。この孤独は、先ほどお話しした日本近代文学の孤独とはレベルが全く違います。日本近代文学の抒情性を支える孤独は、元の場所に戻ってこられる孤独なんですね。

 とても良い企画だと思った。これを機に私も戦後派の作家たちを読み直してみよう。とくに大岡昇平石原吉郎は欠かせないだろう。


戦後文学を読む (講談社文芸文庫)

戦後文学を読む (講談社文芸文庫)