大江健三郎・江藤淳『大江健三郎 江藤淳 全対話』を読む

 大江健三郎江藤淳大江健三郎 江藤淳 全対話』(中央公論新社)を読む。全対話とあるが、1960年、1965年、1968年、1970年の4回になる。

 1960年の対話は安保改定に関するもので、政治に無関心な層が多い『週刊明星』で行われ、わずか6ページにしか過ぎない。

 1965年の対話は、前年に発表された大江健三郎の『個人的な体験』に対する江藤淳の批判が中心になっている。大江が『個人的な体験』の結末を書き換えた版を作っていたことを江藤は激しく批判する。

 大江の発言から、

 ところが江藤さんの場合は明治維新という変革をあまり高く評価しないで、たとえば新井白石のことを書いていらっしゃったけれども〔『近代以前』〕、江戸時代からの儒学の伝統がすんなり明治維新につながっていると主張されたのじゃないか。そうだとすると、戦後にわたる際に、戦後体験、敗戦体験が軽視される。ひいては戦後文学をそれほど重要視されないということが出てくるのではないか。江藤さんは、そこで近代日本文学の正統というものを江戸文学あるいは漢学の伝統に求めることができると考えていられるらしい。しかしぼくは、文学の正統というものを近代の日本、日本人の場合には、あえて日本の文学者の外国文学との出会いの瞬時刻々のあり方に求めるべきで、それを江戸以前の過去に求めるのは不可能ではないかと考えています。

 

 1968年の対話では大江の『万延元年のフットボール』がテーマになる。江藤は、『万延元年のフットボール』を強く批判する。『個人的な体験』に比べて、複雑なことをうまく重ね合わせてまとめているという点では技術的に今度のほうがすぐれているかもしれない。だけれども文学的には『個人的な体験』で提出した主題が一歩も前進させられていないという印象を持った。それを江藤は、大江の「技術的な進歩と文学的な足踏み」と批判する。

 『われらの時代』から『個人的な体験』にかけて、大江が世界を把握しているというか世界とどこかでかかわっているという感じを失ってしまって来たのではないか、と。実在の世界からの剥離は『われらの時代』からだんだん大きくなって、『万延元年の~』の読みにくさに到達したと思う、と江藤は言う。

 大江が主人公たちに「蜜三郎」や「鷹四」という名前を付けたことにも社会性がないと批判する。また、この小説の主題は実は蜜三郎と細君との関係だという。細君は蜜三郎にとって回避できない他者だからだと。

 1970年の対話は、江藤の『漱石とその時代』がテーマになっている。この段階ではまだ第1部と第2部しか完成していなかったが。対話では漱石と子規との交友から子規に対する評価が話題になる。大江は江藤が虚子を通じて子規を書いているため不十分だと言う。大江は子規の評伝を書きたいと思うと発言している。そのときには、何よりも子規の偉大さを書きたいと。大江の郷里の先輩の伝記を読みたかった。

 江藤の激しい大江批判はあまり参考にならなかった。そういえば、昔『漱石とその時代』を読んで明治時代に興味を持ったのだった。当時第2部までしか読まなかったけど、第5部まで出ているのだから読み直してみよう。また『万延元年のフットボール』も読み直してみよう。