奥憲介『「新しい時代」の文学論』(NHKブックス)を読む。副題が「夏目漱石、大江健三郎、そして3.11へ」。
第1章で夏目漱石の『こころ』を取り上げ、全体の半分に当たる第2章で大江健三郎が取り上げられる。3分の1に当たる第3章は「「新しい時代」の文学に向けて――3・11のその後」をどう生きるか」と題されて、川上弘美『神様2011』、多和田葉子『献灯使』、村田沙耶香『コンビニ人間』が取り上げられる。
大江健三郎論が秀逸だった。時代を追って大江の作品が読み解かれ、大江の葛藤や再生が語られる。
性的人間、政治的人間に関して
政治的人間とはつねに他者を必要とし、その他者性と対峙するがゆえに政治的であり得る。他方、性的人間には他者の存在もなければ自らも他者ではあり得ず、ゆえに対立も抗争も生じることはない。これは戦後のアメリカと日本のアレゴリーであることはいうまでもない。つまり、敗戦によって遭遇した政治的人間たるアメリカという圧倒的な他者がいて、一方で日本はその強大な他者との対峙を避けることで性的人間にならざるを得なかったという構図がそれにあたる。(中略)
戦後の日本にとって、応答すべき他者とは何だったのだろうか。
敗戦という、国家の次元においても個の次元においても、極めて大きな経験を受け止め総括する主体を持ち得ず、なし崩しにしてきた日本は、同時に他者性も放棄してしまったのではないか。
第3章では、いいしいしんじ『海と山のピアノ』、そしてシモーヌ・ヴェイユが紹介される。私は多和田葉子の『献灯使』以外、川上弘美も村田沙耶香も、いしいしんじもシモーヌ・ヴェイユも読んでいない。そのあたりも読んでみようか。
さて、本書の前に井上隆史『大江健三郎論』(光文社新書)を読んだ。井上は大江の、沖縄戦「集団自決」裁判を重視する。裁判は『沖縄ノート』の大江の記述、集団自決は島の日本軍の守備隊長らによる住民たちへの集団自決命令によると書かれていたことから、隊長の遺族や曽野綾子らが大江を訴えたもの。裁判は最高裁判所で原告の敗訴が決定した。しかし、井上はこの裁判について疑義を訴え続ける。
池澤夏樹が『図書』3月号に「沖縄の大江健三郎」というエッセイを書いている。
こうして大江健三郎と共に過去を思い出しながら、たった今の沖縄を見ると、そこまで虐められるのかと悲哀の念に駆られる。かつては政権党の中にも野中広務、橋本龍太郎、山中貞則、小渕恵三など沖縄を理解しようとする政治家がいた。今は皆無、ぜったいの皆無。
司法はどうか。渡嘉敷島集団自決事件の裁判で大江健三郎と岩波書店は理非を尽くした審理で曽野綾子たちに勝訴できた。
先日の福岡高裁の代執行を認める無情至極・門前払いの判決と並べるのも情けない。大江健三郎が1972年の国会強行採血について使った「陋劣(ろうれつ)」という言葉を使いたくなる。
まだまだ大江健三郎を読み直さなくてはならない。