中村稔『回想の伊達得夫』を読む

f:id:mmpolo:20190923232829p:plain

 中村稔『回想の伊達得夫』(青土社)を読む。伊達は書肆ユリイカの社主で、雑誌『ユリイカ』を創刊し、多くの戦後詩人を世に出した。ただし、現代の『ユリイカ』は別会社の青土社が発行している。
 中村稔は詩人で弁護士、処女詩集『無言歌』を書肆ユリイカから出版している。中村の『束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯』は優れた伝記だった。その中村によるユリイカ社主伊達得夫の伝記。
 伊達は原口統三の『二十歳のエチュード』の出版で成功する。その後、那珂太郎『ETUDES』、『中村真一郎詩集』、中村稔『無言歌』の発行で詩書出版社として伝説的存在となる。だが、書肆ユリイカは自前の事務所があったわけではなく、森谷均の経営する昭森社の片隅の机ひとつで出発している。それも家賃なしで借りていた詩誌『列島』の机で『列島』の事務を手伝うということで始めたものだった。
 書肆ユリイカは1954年から『戦後詩人全集』(全5巻)を発行し成功する。このうち第2巻を除いてまだ若い戦後詩人たちで、中村はその先見性を高く評価する。とくにまだ1冊の詩集も出していなかったのに『戦後詩人全集』に収められた詩人が、大岡信、新藤千恵、清岡卓行、長谷川龍生、山本太郎などだった。
 思潮社の小田久郎はこの全集の伊達の人選を批判しているが、それに対して中村が小田の『現代詩文庫』の人選について、「どうしてこの詩人が入っているのかと感じることも多く、総花的であって、しかも小田久郎の好みが反映している。人選を批判するのはまことにやさしい」と批判している。
そういえば、小田は『現代詩文庫』に会田綱雄を入れることにしたエピソードを語っていた。詩人たちが会議の流れで雑談していたとき、『現代詩文庫』の話になった。

 そんな話をしていたとき、それまでだまって盃を傾けていた会田(綱雄)が、突如、途方もない大きな声でどなったのである。
「――だまれ! なにが現代詩文庫だ!」
 席はいっぺんにしんとなった。会田がなにをいおうとしているのか、とっさに私には見当がつかなかった。三浦(雅士)がすばやく会田の隣りに座りなおして、会田をなだめつつ座をとりなした。気まずい雰囲気のまま、自然に座談の輪は崩れ、三々五々に散っていった。
 数日後、私は会田に電話をかけた。
「――現代詩文庫に、会田さんの巻を作らせてもらえませんか」
 会田は絶句し、2、3分黙ったままだった。殺気のようなものが薄れ、やがてしゃがれた低い声が伝わってきた。
「わかった。よろしくたのむ――」
 翌年1月、既刊の『鹹湖』『狂言』『汝』3詩集に、未刊詩集『関係』まる1冊分を収録した『現代詩文庫60・会田綱雄詩集』が、世に送り出された。

 不愉快な話だ。そもそも会田綱雄を外す方が非常識だろう。
 伊達はまた稲垣足穂を世に出し、稲垣が結婚する相手も紹介している。未完に終わったとはいえ、『稲垣足穂全集』を刊行し続けた。
 以上が第1部で、第2部では伊達得夫の伝記を綴っている。これはあまり面白くない。伊達が優れた詩誌の編集者ではあっても、優れた作家ではなかったからだ。若い頃の文章なども採録されているが、あまり読むに堪えるものではない。以前読んだ伊達得夫『詩人たち ユリイカ抄』(平凡社ライブラリー)も評価できるものではなかった。
 本書のブックデザインを菊地信義が担当している。さすがに斬新なデザインで、普通、帯に印刷する宣伝文を大きな文字で表紙に印刷し、そこに小さく(注.1)から(注.7)までが赤字で添字されていて、その注は裏表紙に解説されている。こんな形式は初めて見た。ただ、その注.7は中村稔についてのもので、中村の主な著書として『束の間の幻影 銅板画家駒井哲郎の生涯』とある。この「銅板画家」は「銅版画家」の校正ミスだ。

 

 

回想の伊達得夫

回想の伊達得夫