会田綱雄の詩

 小田久郎『戦後詩壇私史』(新潮社)を読んでいたら、会田綱雄について書かれていた。「26章 点鬼簿の詩人たち」の項に紹介されている。吉岡実の葬儀で小田が弔辞を読んだという。そして、「吉岡を失って現代詩の屋台骨が崩れたという喪失感をしゃべったが、その弔辞の控えがなく、ここに再録することができない。/吉岡実と同じ筑摩書房に禄をはんでいた会田綱雄については、こんなトラブルがあった」と書いて、

 1974年の2月か3月ごろ、「歴程セミナー」かなにかの帰り、草野心平がやっていた、バー「学校」へいったことがある。セミナーの校長をしていたので、なんとなく10名くらいのメンバーが、及川均をかこむかたちになった。及川の隣りの席には、集英社時代に及川に面倒を見てもらった三浦雅士が座り、その隣りか隣りに、会田綱雄がむっつりと座っていた。一座の話題は、なんとなく「現代詩文庫」にかたむきがちだった。というのも及川は私にとっては出版会の大先輩であり、「現代詩文庫」の産みの親とでもいうべき存在だったので、自然に話がそこに流れていってしまったのだ。

 その「現代詩文庫」の装幀をどのような経緯で決めたか説明されている。

 そんな話をしていたとき、それまでだまって盃を傾けていた会田が、突如、途方もない大きな声でどなったのである。
「−−だまれ! なにが現代詩文庫だ!」
 席はいっぺんにしんとなった。会田がなにをいおうとしているのか、とっさに私には見当がつかなかった。三浦がすばやく会田の隣りに座りなおして、会田をなだめつつ座をとりなした。気まずい雰囲気のまま、自然に座談の輪は崩れ、三々五々に散っていった。
 数日後、私は会田に電話をかけた。
「−−現代詩文庫に、会田さんの巻を作らせてもらえませんか」
 会田は絶句し、2、3分黙ったままだった。殺気のようなものが薄れ、やがてしゃがれた低い声が伝わってきた。
「わかった。よろしくたのむ−−」
 翌年1月、既刊の『鹹湖』『狂言』『汝』3詩集に、未刊詩集『関係』まる1冊分を収録した『現代詩文庫60・会田綱雄詩集』が、世に送り出された。

 そういう経緯があったのか。私は高校生の頃、国語の参考書で会田の「伝説」という詩を読んで好きになっていた。この『現代詩文庫60・会田綱雄詩集』(思潮社)も発行直後に買っている。
 その「伝説」という詩。

湖から
蟹が這いあがってくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ


蟹を食う人もあるのだ


縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を掻きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる


ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ


くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだった


わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように


それはわたくしたちのねがいである


こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう

 こんないい詩を現代詩文庫に取り上げないのが間違っているだろう。


会田綱雄詩集 (1975年) (現代詩文庫〈60〉)

会田綱雄詩集 (1975年) (現代詩文庫〈60〉)