『シンボルスカ詩集』を読む

 つかだみちこ編・訳『シンボルスカ詩集』(土曜美術社出版販売)を読む。1996年度のノーベル文学賞受賞のポーランドの詩人。フルネームはヴィスワヴァ・シンボルスカ、1923年生まれの女性詩人だ。中に「橋の上の人々」という詩がある。私はまさかこれは鮎川信夫の代表詩「橋上の人」へのオマージュだろうかと思ったが、そうではなくて広重へのオマージュだった。その全文を引く。

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橋の上の人々

  ――歌川広重の「大はしあたけの夕立」によせて

 

奇妙な惑星とそこに住む奇妙な人々

人間は 刻々の影響をうけて

年をとっていくものなのに

それを認めようとしない

異議をもうしたてる方法も知っている

たとえば 次のような絵を描いたりもする

 

一見 なんの変哲もない

一面に川

川岸がみえる

小さい船がいく

川の上に橋 橋の上に人

人は急ぎ足に歩いている

ちょうど暗い雨雲から

雨が激しく降りだしてきたので

 

この絵を見ている限り この先

なにも起こりそうにもない

雲の その色も形も変えそうにない

雨も これ以上 激しく降りそうになく

また止みそうにもない

小さい船も動きを止める

橋の上の人々も 一瞬前と同じ場所を走っていく

 

ここで次のようなコメントなしにこの絵を見ることは難しい

これは全く無邪気な絵というのではない

ここでは時が動きを止めている

ここではその法則が無視されている

ことのなりゆきへの影響を拒否しているかのように

時が辱められ 撥ねつけられてさえいる

 

ヒロシゲ ウタガワとかいう

反逆者のお手柄で

(彼もはるか昔に過ぎ去るべくしてこの世から消えていったが)

時はけつまずき 倒れてしまった

 

おそらく これはただ意味のない

いたずらかも知れないのだが

天文学的規模での 突飛な酔狂なのだ

しかしわれわれは 次のことを付けくわえるべきだろう

 

ここに何代にもわたり この小さな絵を高く評価し 感動さるべきだとされてきた

 

これだけでは不十分だ という人たちもいる

かれらは 雨足の音さえ聞き分け

背中と項に雨の冷たさを感じ取り

橋や人をみつめている

まるで自分がそこにいるかのように

同じように駆け足で

決していきつくことのない

永遠に続く道を

そして向こうみずな自分というものを信じている

現実は本当にそういうことなのだから

 

 

 そしてもう一篇「玉葱」

 

玉葱

 

玉葱ってのなにか違う

こいつには内臓ってものがない

外側をおおっている薄皮から

中の芯にいたるまですっかり玉葱

玉葱だったらこわごわ

自分の内部を眺めまわすなんてこともないのだろう

 

それにひきかえ私たちの中ときた日にゃ

異国趣味と野蛮性

辛うじてそれを表皮でくるんでいる

私たちの内部なんぞ まさに地獄絵

暴力的解剖図

だが玉葱は中の中まで玉葱

ねじれた腸もない

はだかみの幾重もの繰り返し

奥の奥までそんな調子

 

この矛盾なき存在

みごとなまでの自然の賜物

一つの中にまた一つと

だんだんに小さくなっていく

そしてその次も そのまた次も

つまり三皮目も四皮目も

中心に向かって次々と追いかけていく

求心的フーガ

一つのコーラスとして谺する

 

玉葱 私にはお前のことがわかる

この世のものとも思えないキュートなお腹

自分の名誉のため

自身の栄光をその身に巻き付けちゃったりしている

私たちの中身ときたら――脂肪 神経 血管 粘液 そして分泌液まで

そしてこの完璧なまでの愚鈍さというものは

私たちから奪われている

 

 

 ポーランドの作家は私にとって何よりもスタニスワフ・レムだった。若いころ読んだ作家にゴンブロヴィッチやシェンキヴィッチがいた。でもその他あまり馴染みがなかった。