中村稔『現代詩の鑑賞』を読む

 中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)を読む。これがとても素晴らしかった。中村は詩人で、また駒井哲郎などの伝記作者、本職は弁護士である。現代詩の実作者であるから「現代詩の鑑賞」にはぴったりだ。

 本書には鮎川信夫田村隆一から荒川洋治、高橋順子、小池昌代まで27人の詩人が採りあげられている。現代詩は難解だ。それを中村は見事に解釈してくれる。

 田村隆一の「帰途」について、

 

  言葉なんかおぼえるんじゃなかった

  言葉のない世界

  意味が意味にならない世界に生きていたら

  どんなによかったか

 

と作者はその第一節で書いている。この詩集に私たちが知るのは作者の言葉に対する不信である。言葉ではたして私たちは私たちの想念を表現できるのか。私たちは不可能に挑んでいるのではないか。これが田村隆一の戦後詩において提起した問題であった。戦後詩人、現代詩人のすべてがこの重い課題を意識して詩作を試みたのだと言ってよい。これだけの単純な課題を語るのに田村が示している言葉とイメージの華麗さがまたこの詩の魅力である。

 

 

 荒川洋治「渡世」について、

 

  風物詩といわれる

  堅固な

  「詩の世界」がある

  それはいかにも暴力的なものであるが

 

  たしかに

  あちらこちらに

  詩を

  感じることがある

  詩は

  そこはかとない渡世の

  あめあられの

  なかにあるのだから

 

   「お尻にさわる」

   という言葉を

   男はひんぱんに用いる

   なかには言葉の領海を出て

   「少しだけだ、な、いいだろ」と女性に迫ったために

   ごむまりのはずみで

   渡世の外に

   追い出された人もいる

   「だめよ、何するのよ」「ちょ、ちょっと、よしてください!」

   と女性は

   いつの場合も虫をはらうように

   まゆをひそめるのだが

 

  お尻にさわるのもいいが

  お尻にさわるという言葉は

  いい

  佳良な言葉だと思う

  あそこにはさわれない

  でもさわりたい、ことのスライドの表現

  のようでもあるが

  そうではない

  この言葉には

  核心にふれることとは

  全く別の内容が

  力なく浮かべられている

  若いすべすべの肌にふれ

  「いのちのかたち」をたしかめたい男たちは

  まとを仕留めたあとも

  水が

  いつまでもぬれているように

  目をとじたまま お尻に

  さわりつづける

 

 この詩において、作者は、卑俗な素材を採りあげて、言葉のもつ微妙な機能を明らかにしている。作者の成熟は注目すべきものだが、現代詩の世界はここまで、つまり、まるで抒情詩とは言えない領域にまで、拡張されていることに私は感慨を覚える。

 

 

 高橋順子の「処世術」について、

 

  「八百屋へ行くのに

  鏡の前で帽子を三回かぶりなおすとは」

  と呆れられている

  「あなたは自分をよく見せようとする弱さがある

  せめて嫌われてもいいと思ったら?」

  

  一人で生きてきた臆病な女の処世術は

  なるべく敵をつくらないこと

  なるべく人を悲しませないこと

  黙っていること

  でした いまそれが分かる

 

 ここには抒情性がまったくない。しかし、高橋順子という人間が確実に存在する。もっと言えば、彼女が「連れ合い」と呼んでいる車谷長吉という人物を彷彿と描き出している。しかも詩人の心情が痛いほど伝わってくる。これが「詩」である、と私は考える。

 

 

 中村は「後記」で、「本書で私は27名の詩人の作品を採り上げたが、一方では、私と同世代の人々で私が高く評価している詩人たちが洩れているし、他方、40歳代、50歳代の詩人たちの作品をまったく採り上げていない」と書いている。せめて吉本隆明黒田三郎谷川雁あたりも採り上げてくれればよかったのに。でもきわめて優れた現代詩の紹介だと思う。すでに名著と言って良いだろう。

 

 

 

現代詩の鑑賞

現代詩の鑑賞

  • 作者:稔, 中村
  • 発売日: 2020/11/26
  • メディア: 単行本