北村太郎『センチメンタルジャーニー』を読んで

 北村太郎『センチメンタルジャーニー』(草思社)を読む。副題が「ある詩人の生涯」とあり、「荒地」の詩人北村太郎の自伝だ。とは言うものの、一般的な自伝とは少し違っている。北村は自伝の執筆を意図したが、悪性血液病を患っていて、余命2年以内しかない。そこで詩人の正津勉を相手に語り下ろしをして、それに筆を入れるという方法で完成したいと考えた。そのやり方で最後まで語り切ったが、原稿がなかなか進まない。そして原稿は未完のまま北村は亡くなった。
 そんなわけで、第1部は北村が筆を入れて原稿になっているが、後半第2部は北村が語ったものをほぼそのまま収録している。本書で北村は若い頃からの詩人仲間との交流を詳しく語っている。15歳で東京府立三商へ入学し、やがて同学年でのちに「荒地」の同人になる田村隆一と知合う。塾へ通っていたが、同じ塾に吉本隆明も通っていて、吉本は北村のことを知っていたと戦後になって聞いた。詩の雑誌で鮎川信夫の名前を知った。また中桐雅夫も同じ雑誌に投稿していた。
 三商の卒業後、北村は横浜正金銀行に就職するがすぐ退社する。田村隆一東京瓦斯を希望して合格するが一度も出社しないでやはり辞めている。それで浪人して、北村は東京外国語学校の仏語部文科に入学し、田村は明治の文芸科に入った。北村はそこの2年生になる前に結婚した。1943年に海軍に入隊、基礎訓練を受けたあと横須賀の通信隊で暗号解読の任務についた。そこでは辛い体験はしなかった。
 戦後、鮎川信夫田村隆一、北村、三好豊一郎らで「荒地」を始める。のちに黒田三郎や中桐雅夫、加島祥造、衣更着信、吉本隆明らが参加する。北村は朝日新聞に就職する。だが30歳のとき潮干狩りに行った妻子が事故で亡くなる。2年後見合いして結婚する。54歳のとき恋愛事件を起こす。朝日新聞を辞めて、奥さんと別居しA子さんと一緒になるが、彼女も亭主と別れたわけではない。三角関係のときもあった。
 今まで刊行した詩集は11冊になるという。だが自分は「縁辺の詩人」だと謙遜する。田村や鮎川に比べると正当な詩人ではないと自己評価する。それは比べる相手が悪いというものだ。
 鮎川が急死したとき、火葬場で激情をこらえながらお別れをしている婦人がいた。よく知っている人なんでぼくはアッと思ったと書いている。それでもその名前は書かない。以前加島祥造と暮らしていて、鮎川のパートナーだった最所フミなのに。
 自分の詩の低い評価にしても、巻末の略年譜を見れば、実は芸術選奨文部大臣賞受賞、藤村記念歴程賞受賞、読売文学賞受賞など錚々たるものなのだ。
 さらに北村は田村隆一の奥さんと一緒になったり、女性関係も決して地味ではなかったのにほとんど触れていない。A子さんとのことについては、ねじめ正一が『荒地の恋』という少々下品な小説を書いている。
 私がぐだぐだ書き綴っているのは、北村太郎の自伝という割には、結構重要なことが落とされていることを指摘したかったからだ。自伝というのは、やはりあんまりあてにならないものなのだろうか。
 北村が「列島」の詩人について書いている箇所がある。

「列島」にもいろいろな人がいたけれども、とくに記憶に残っているのは長谷川龍生とか関根弘。この2人は目だっていい詩人だなと思ったくらいで、本当のことをいうと、他の人はそれほどおもしろくなかった。ぼくの個人的な考えでいうと、長谷川は、ちょっと気味が悪いくらいに、あるいは病的といっていいくらいに神経の細かい人だなという印象を作品から受けました。関根さんはいわゆるプロレタリア詩人なんだけれども、戦中にあったプロレタリア詩からは一変化も二変化もしたというか、あるいは戦中のプロレタリア詩とははっきり切れているといってもいい、モダンで余計な思い込みのない、じつに醒めたすてきな詩だったというのを覚えています。

 長谷川龍生と関根弘はどちらも優れた詩人であることは間違いない。北村の評価を知って我が意を得た思いだ。

センチメンタルジャーニー―ある詩人の生涯

センチメンタルジャーニー―ある詩人の生涯