樋口良澄『鮎川信夫、橋上の詩学』を読む

 樋口良澄『鮎川信夫、橋上の詩学』(思潮社)を読む。鮎川は現代を代表する詩人。戦後詩の中心だった「荒地」グループのリーダーでもあった。戦後詩人で3人選ぶとしたら、鮎川信夫田村隆一吉本隆明だろう。その鮎川論。
 鮎川は十代の頃から詩を雑誌に投稿していた。父親が編集者だったので、父親の作っていた雑誌にも複数のペンネームで投稿し、さらに少女雑誌等にも投稿していた。
 やがて同人誌などに参加していく中で、17歳のとき森川義信に出会う。以来毎日のように交流が続く。この森川が、戦後書かれた鮎川の代表作「死んだ男」のMだ。
 その「死んだ男」の最終連を引く。

埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった
空にむかって眼をあげ
きみはただ重い靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でも痛むか。

 1939年3月、雑誌「荒地」を創刊する。発行人鮎川。題名はT. S. エリオットの詩「荒地」から採られている。しかし「荒地」は1940年に5号まで出して終わる。この後、鮎川は遺言のようなつもりで「橋上の人」を書きはじめる。第1稿は戦前に発表されたが、戦後にわたって第2稿、第3項が書き継がれた。
 傷病兵として生還した鮎川は、戦後再び「荒地」を創刊する。戦後の荒地同人は、鮎川のほか、中桐雅夫、黒田三郎三好豊一郎、木原孝一、田村隆一北村太郎加島祥造らだった。
 鮎川が66歳で突然亡くなったとき、葬儀の折りに鮎川の配偶者が現れて友人たちを驚かせる。英語学者の最所フミだった。この時最所は79歳。鮎川は生前親しい友人にも彼女のことを伏せていた。最所は以前加島祥造のパートナーでもあった。
 鮎川の歩みが、その思想や行動を中心に詳しく語られる。とくに思想的なことがよく分かった。鮎川について優れた伝記だと思う。
 ただ、ちょっとだけ注文をつければ、鮎川の詩について、もう少し取りあげてもらえば、もう何も言うことはないのに。


鮎川信夫、橋上の詩学

鮎川信夫、橋上の詩学