深町英夫『孫文』を読む

 深町英夫孫文』(岩波新書)を読む。孫文のことは現代中国史でも東洋史でも必ず扱われ、何となく知っているような気がしていた。孫文は死後、中華民国の政権を掌握した中国国民党によって「国父」と尊称され、中華人民共和国を樹立した中国共産党によっても革命の先駆者と位置づけられているという。
 北京からも台湾からも慕われ尊敬されているような偉人、そういう認識があった。本書を読み終わって印象がだいぶ変わった。
 孫文満州人の王朝である清朝に対して、漢族の国家建設を目指して運動する。「減満興漢」思想によって清王朝の転覆を図っていく。孫文は何回も武装蜂起を試みるが、すべて失敗する。
 孫文には強固な基盤がない。日本やアメリカ、イギリスなどに働きかけて、革命が成功したあとの利権を担保に巨額の資金の借り入れを申し入れている。しかし、その計画は成功しない。各国とも他国へも同様な提案をしていることを問題視し、巨額の借款の提案はいずれも拒否されてしまう。
 1911年、武昌の革命党員が爆弾を製造中に誤って爆発させ、当局が3人の党員を逮捕・処刑する。それを機に新軍将兵が武昌で蜂起し、湖広総督を攻撃すると長官は逃亡した。それが辛亥革命と名付けられる。蜂起軍は武昌・漢口・漢陽を制圧し、国号を中華民国と名付ける。この時アメリカに滞在していた孫文は、アメリカ、フランス、イギリスに働きかけるが望むような結果は得られなく、そして有力な指導者がいない革命中国では混迷を迎えていた。アメリカからイギリスを回って香港に帰国した孫文が上海に入ると、群衆の熱狂的な歓迎を受けた。孫文中華民国臨時大総統に就任する。
 しかし孫文の臨時政府は十分な財源がなく、日本との間に満洲租借を条件とする資金援助も検討している。様々な借款交渉は失敗に終わる。宣統帝溥儀が退位し袁世凱が臨時共和国政府を組織し、孫文は臨時大総統を辞職する。
 孫文は再び日本へ亡命し、またアメリカへ渡る。孫文たちの企てる蜂起は資金不足や補給の不足などから成功しない。孫文アメリカのウィルソン大統領に支援を要請するが、ウィルソンは、

……「彼(孫文)の表明する主義・目標には幾度か共感を抱いてきた」と述べつつも直接の関与は望まず、対応を協議された国務長官ロバート・ランシングも、孫文が「賄賂を受け取り、最高額を出す者に奉仕しようとしている」と嫌悪感を示したため、なんらの支援も孫文に与えられることはなかった。権益の譲渡と引き換えに外国の支援を求めるという、孫文が長年にわたり取ってきた手法が忌避されたのである。

 孫文のウィルソン宛て電報は新聞に掲載され、孫文の日本への支援要請に対しても、寺内正毅内閣も次の原敬内閣もそれを無視した。孫文はほとんど国内に勢力基盤を持たないために、外国に支援を要請せざるを得なかった。
 1922年にソビエト・ロシアやコミンテルン孫文接触する。その結果、中国国民党がそれらから支援を受け、「連ソ・容共」の方針が決定された。孫文ソビエト・ロシアの既得権益の維持の承認と引換えに資金援助を受ける。ロシアへ代表団を派遣したが、その団長が蒋介石だった。孫文ソビエト・ロシアから資金提供とともに軍事的な支援を受ける。陸軍軍官学校を設立し、蒋介石が校長に就任した。この卒業生がのちに国民革命軍の中核となり、蒋介石の側近集団を形成する。
 1925年、孫文は肝臓がんのため北京で永眠する。59歳だった。
 私にとって、孫文という中国建設の父、最大級の偉人というイメージが本書によって変質していった。著者も「ヤヌス・孫文」と書いている。ヤヌスとは前後に二つの顔を持つ神で、孫文を「独裁志向の民主主義者」としている。
 孫文について少しばかり分かった気がする。