吉本隆明『国家とは何か』(角川ソフィア文庫)を読む。7つの講演録と1つのエッセイを仙崎彰容が編集・解説したもの。仙崎が高校生の頃、吉本隆明の『共同幻想論』を読んだが全く意味が理解できなかった。しかし大学院生の頃手に取った『吉本隆明著作集』に収められていた講演集を読み始めると、その分かりやすさに驚いたという。
(……)これらの講演集に眼を通しながら、傍らに『共同幻想論』を置いて、じっくり読み直してみた。今度は完読することができた。この主著が何を目指して書かれたのかがわかったし、そもそも吉本隆明がいったい何を考えてきた人間だったのか、思想家としての骨格を理解できたと確信したのである。
それは私たちにとって、「国家とは何か」という問題である。
あるいは、より広く、私たちにとって、「共同体とは何か」という問いである。
本書に収められた講演はたしかに分かりやすい。仙崎の言うように私も『共同幻想論』を読み直してみようかと思った。吉本はエンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』において、まず原始的なある段階で、集団婚が存在したという考えを批判する。これは吉本の批判通りだろう。
ついで現象学的な人間理解に対して批判している。
だから、現象学的な人間理解がわれわれの不満をひきおこすのは、そういうことについて無造作であるということなんです。つまり、無造作に個体の幻想性の問題を、他者対個人というような関係に還元するわけです。そこでは、どこへいっても、人間がいるだけです。そして問題なのは、人間と人間の関係だというようになるわけです。しかし、そうじゃないので、人間がいるというのは認めてもいい。しかし、人間がどういうふうにいるかということについては、現象学的な解釈を認めるわけにはいきません。人間と人間とがどう関係するかという場合には、さきほど申しましたように、最初に性の問題があらわれてくるほかないのです。つまり、男性または女性としての人間という範疇でのみ、人間は他者と最初に関係しうるということです。そして、その関係が国家という共同幻想性に到達するためには、対幻想性のうちのあるひじょうに特殊なものの媒介、さきほどからいう兄弟、姉妹の関係という媒介が必要であり、かつ、その媒介が即自的に国家の共同幻想性に移行するんではなくて、そこには、個々の条件によるある一種の幻想性としての飛躍、あるいは断絶というものが必要であるということです。そういうように位相性を異にして存在しているという問題意識が生まれてくるわけけです。
この辺り素直に賛成しかねる問題だ。むしろ現象学的に考えてみたい気がする。
しかし、吉本の講演が分かりやすいことは本当だ。やはり『共同幻想論』を読み直してみたい。
