野坂昭如『新編「終戦日記」を読む』を読む

 野坂昭如『新編「終戦日記」を読む』(中公文庫)を読む。野坂昭如は昭和20年6月5日に神戸の家を空襲で焼け出され、8月15日は疎開していた福井県の農村で玉音放送を聞いた。

 それで毎年6月5日と8月15日、空を見上げる。そして戦後、あの時大人たちはどう思っていたのか考えて、様々な人のあの頃の日記を集めて読んだ。8月5日、広島県立第一高等女学校1年、森脇瑤子さんの日記、

起床 6時 就寝21時 学習時間 1時間30分 手伝い 食事の支度

今日は家庭修練日である。

昨日、叔父が来たので、家がたいへんにぎやかであった。「いつも、こんなだったらいいなあ」と思う。明日からは、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う。

 

 しかし翌日広島に原爆が落とされ、瑤子さんは10キロ離れた学校の理科室に正午近く収容され、夜死んだ。

 8月1日、野坂は妹とともに、福井県春江町へ難民として流れついた。やせ衰えた妹と食いもののことばかり考えていた。8月5日、野坂は15歳、妹はまだ1歳4か月だった。

 8月9日、山田風太郎の日記。運命の日ついに日本に来る。夕のラジオは、ソビエトがついに日本に対し交戦状態に入ったことを通告し、その空軍陸軍が満州侵入を開始したと伝えた。

 同日、海野十三の日記。ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は5分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。/この大国難に最も御苦しみなされているのは、天皇陛下であらせられるであろう。/果して負けるか? 負けないか?

 こんな調子で、空襲や原爆投下、ソ連参戦、終戦、戦後の混乱が語られる。

 第2部は開戦から空襲、終戦、戦後に関する野坂のエッセイを集めている。今となっては信じがたいほどの悲惨な日々の記録だ。野坂はそれらを忘れることなく、何度も反芻し記憶せよと訴える。妹はやがて餓死する。その体験から名作『火垂るの墓』が生まれる。

 野坂昭如はすこしも軽薄な作家などではなく、悲惨な戦争の記憶を訴え続けていたことがよく分かる。

 1930年生まれの野坂昭如は、わが師山本弘と同い年だった。戦争の記憶は山本弘の価値観を混乱させた。山本も生涯にわたって、「虚無の虚無なるかな、すべて虚無なり」という旧約聖書の言葉を忘れなかった。そしてその言葉通り虚無に生きた。生涯苦しい生だった。