吉本隆明『夏目漱石を読む』(ちくま文庫)を読む。吉本が1990年から1993年にかけて4回にわたって講演したものに手を入れたものだという。基本、これが講演録なのでとても分かりやすい。漱石の個々の作品について丁寧に語っている。教えられることが多かった。
1回目の講演で、『吾輩は猫である』『夢十夜』『それから』を採り上げて語っている。
明治以降、ただ一人の作家をといわれれば、漱石を挙げる以外にないとおもえます。それから、一人の思想家をといえば、柳田国男を挙げるより仕方がない。この二人の仕方なさというのは、いろいろな刺戟をはらんだ仕方のなさですし、また、この二人だったら、どこへもっていっても通用するということでもあります。
『坊っちゃん』について、当時漱石は現在の筑波大学と早稲田大学で教えていた。日本中に知れ渡った秀才だった。それを全部やめて地方の松山中学に赴任した。
……漱石の『坊っちゃん』は日本の近代小説のなかで悪童物語の典型になっていて、いまでも読むとたいへんおもしろおかしい小説で笑えるのです。明治時代に書かれた小説が今でも悪童小説として通用してしまうという永続性は、その場かぎりの言葉のあやではだめなのです。その永続性は、たぶんそのとき漱石の奥のほうに隠されていた生涯の悲劇性です。大会社の重役として勤めていた人が突然やめて中小企業の平社員になったのとおなじぐらいたいへんなことを、なぜやったのか。漱石がもっていた精神状態はそんなことには代えられなかったというか、そんなことをグズグズいっていられない状態で、たいへんな生涯の危機のひとつだったと理解することができるのです。
『虞美人草』について、
恋愛にかぎらず、ある事柄にぶつかって挫折したとか、めちゃくちゃな目にあって落胆して死にそうだという体験の切実さでもいいけど、それが描かれていて、文学はこういうものだったんだとおもう作品があります。しかしその場合もおなじで、現にそういう体験にぶつかって、しょげて、今日死のうか明日死のうかとおもっている人にそういう作品をもってきても、その作品に向かわせることはできません。つまり文学にはそういう力はないのです。
しかし逆にいえば、それに匹敵するだけのものをもっていることが、文学の初源性です。『虞美人草』のある場面がもっているこの感じ、もとを正せば文学はこういうものだったんだ、どんなに複雑に、高度に表現の仕方が発達してももとを正せばこれだったんだということは、漱石の作品のなかでたぶん『虞美人草』だけが感じさせるものです。もっといい作品はたくさんありますが、ほかのものにはそれはないといっていいぐらい、この作品だけにあるものです。ですから、それを楽しみにするというか目当てにすれば、『虞美人草』はほかのすべての欠陥にもかかわらず、やはり読むに値する作品だといっていいとおもいます。
『三四郎』について、
系譜がたどれたり、未来がたどれるというかたちでいえば、漱石の『三四郎』はその最後の作品で、ここで楽しい意味での恋愛小説は終わってしまったということになるのかもしれません。つまりそれ以降は漱石自身からも、漱石の系譜に属する作家からも、あるいはほかの作家からも、野放図に楽しそうな青春小説はめったにあらわれることはないし、あらわれたとしたら、それはちょっとした作り物、つまり読み物というかたちでしかなくなってしまいました。
『門』について、
……初めて漱石が日常生活のなかで、たしかにありうべき人物を描いたということができます。ありえないのは三角関係の描き方であって、それはたぶん漱石の深い資質に関係があるのだと僕はおもいます。それはほかに材料がないからということではなくて、漱石の資質としてはとても大問題なのだというふうに、僕にはおもえます。つまり暗い漱石というのと、国民作家漱石というのと、両方あります。『坊っちゃん』のような小説を書く漱石もありますし、国民作家漱石というのと、暗い気違いじみた漱石というのと両方あるとすれば、その両方の要素をひとつの作品のなかにたいへんよく融合した、そういう作品がこの『門』という作品だとおもいます。
『彼岸過迄』について、
……文学理論が先にあって、それでなんとかして作品を自分の理論と融合、合致する点でつくりながら、じぶんのモチーフを解決させたいということがあった、そういってみたい気持ちはわかる気がします。
このへんが漱石の特異なところでしょうし、ほんとうの小説好きから、玄人受けしないところです。玄人受けするのは鴎外の作品のほうです。でも、漱石のほうが強い時代意識と、じぶんの資質にたいする追及とか、同時代の風俗にたいする洞察力とともに格段の違いです。作品も格段の違いだとおもうのが妥当でしょう。しかし、ほんとうに小説好きな人、たとえば太宰治なども、漱石よりも鴎外をより高く評価しています。そういう人は、玄人筋にはとても多い感覚優先のせいかとおもわれます。
「あとがき」で吉本は書く。
わたしは漱石の作品に執着が強く、十代の半ばすぎから幾度か作品を繰返し読んできた。隅々までぬかりなく読んだので、一冊の本にその学恩ではなく、文学恩を返礼するのが、わたしの慣例なのだが、江藤淳さんの優れた漱石論があるので、これで充分いいやと考えてそれをしていない。(太宰治についても奥野健男氏の優れた批評文があるのでおなじように考えた。)ところで漱石について作品を論述する機会を与えられ、喜んでそれに応じて、出来るかぎり詳細に作品論を語った。この本の内容がそれである。
幸せな読書だった。漱石を読み直そう。