大学入試の国語問題に小説の出題を廃止してはという提案

 私立高校教師の佐藤範子が大学入試センター試験の国語に小説の出題を廃止するのが適当と言っている(朝日新聞「私の視点」10月1日)。

 今の(大学入試)センター試験は複数の選択肢から一つを選んで答えるマークシート方式を採用している。(中略)しかし、国語という教科の性質を考えた時に、答えを一つに絞ることはなかなか困難である。特に小説の場合、登場人物がとった行動についてその時の心情や理由が出題されることがしばしばあるが、本来小説は、その作品に対する読者の自由な読み取りに委ねられることに存在価値があると言っても過言ではない。(中略)
 試験後に発表された解答に対して、生徒ならずとも腑に落ちない、あるいは違和感を覚えた経験もある。教師のほうはそんなのんきなことを言っていられるが、試験に勝負をかけている生徒にとっては切実だ。(中略)
 新しい入試でもマークシート方式を採用するのであれば、小説の出題は廃止するのが適当と考える。その代わりに評論文の出題を増やしてはどうか。それも難しいなら、小説の出題に関してだけでよいから複数解答を認めるようにすべきではないか。(後略)

 少し前に斎藤美奈子が「文庫解説を読む」という連載を岩波書店のPR誌『図書』に始めた(8月号より)。その第2回(9月号)で漱石の『坊っちゃん』が取り上げられる。まず新潮文庫江藤淳が解説を書いている。

……〈これでも元は旗本だ〉と啖呵を切る旧幕臣の出の坊っちゃんと、朝敵の汚名を着せられた「会津っぽ」の末裔である山嵐。〈このように、一見勝者と見える坊っちゃん山嵐が、実は敗者にほかならないという一点において、一見ユーモアにみち溢れているように見える『坊っちゃん』全編の行間には、実は限りない寂しさが漂っている〉
 明治に敗れる江戸。赤シャツに敗れる坊っちゃん。そして留学先のロンドンで敗れ「神経衰弱」に陥った漱石。「『坊っちゃん』=敗者の文学」論である。

 岩波文庫の解説は平岡敏夫。「おれ」=坊っちゃんの孤独や孤立があぶりだされているという。さらに、

もうひとつ、平岡解説の特徴は、坊っちゃん山嵐に旧武士階級というだけではない「佐幕派」、すなわち戊辰戦争で負けた側の影を見出していることだ。二人をはじめ善玉側の人間がなべて佐幕派に属する地域の出身であることを指摘しつつ、平岡は書く。〈明治維新以後、薩長藩閥政府に冷遇され、時代の陰にあった佐幕派の人たちの、国であれ地方であれ中学校であれ、ひとしく体制に対する反逆という文脈のなかで、『坊っちゃん』を読むことができ〉るのだと。
 いやはや! ガハハと笑って『坊っちゃん』を読んでなんかいたら、ドヤしつけられそう。

 一方、子ども向け文庫の解説は、いろいろ留保をつけつつ正義感の強い青年が活躍する痛快ドラマと位置づけている。
〈その深い意味はともかく、面白く、愉快に読むことが出来ます〉(奥本大三郎岩波少年文庫
坊っちゃんのように、やりたい放題ができたら、どんなに愉快なことでしょう〉(後美知好章/角川つばさ文庫
 さらに小学館文庫の夏川草介の解説が出色だと斎藤は言う。夏川は、坊っちゃん像は孤独や悲哀とは無縁であると主張する。東京に戻った坊っちゃんは〈悠々と教職を棄てて街鉄の技手をこなしている。それを坊っちゃんの敗北とすることは、いささか筋違い〉だと。
 集英社文庫ねじめ正一の「鑑賞」は過激だ。赤シャツがうらなりの許嫁のマドンナをとったというが違うのではないか。名家の息子というだけで魅力に乏しいうらなり君をマドンナが心から愛していたか疑問だ。親の言いつけでしぶしぶだったのではないか。そこに東京帝大出の赤シャツが現れて積極的に近づけば、うらなり君より魅力を感じるのは当然であると。
 連載の3回目(10月号)は川端康成が取り上げられる。『伊豆の踊子』と『雪国』だ。斎藤は新潮文庫三島由紀夫の解説をちんぷんかんぷんだという。竹西寛子の「人と作品」も〈人生初期のこの世との和解〉ってあるけど何のこと!? と厳しい。角川文庫の進藤純孝は〈母体の遠さにもだえがちな自身をもてあましてきて川端さんは、ここで遠さの残酷に徹する姿勢をようやくにささえている〉と書き、茫漠としている。
 『伊豆の踊子』の明快な解説は、後発の集英社文庫奥野健男の「解説」と橋本治の「鑑賞」だった。二人がともに着目するのは「私」と踊子の間の階級差だ。茶店の婆さんから「旦那さま」と呼ばれるエリートの「私」と「あんな者」とさげすまれる旅芸人の一座の階級差。橋本は分析する。

 「私」と踊子の間には超えがたい「身分の差」が横たわっている。当時は売買春も当たり前で、踊子もその含みをもっていた。〈「それならいけるか」と思った”私”〉は一座についていくが、むろんそんな欲望は表に出せず悶々としている。そんな彼の屈託を解放したのが風呂場で手をふる薫(踊子)だった。だから彼は〈子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた〉のである。(中略)
 「あの子が好き」という感情を認めたくなかった「私」の苦い自責が一気にほどけるのがラストシーンなのだ。
 〈冷静に別れたつもりが、そして、伊豆の旅の間、終始一貫冷静に振る舞ってきたはずの自分が全部ウソ〉と気づいたときには、もう彼女は遠くにあり、自分の幸福も遠のいてしまった。橋本解説は明言していないが、それは「私」が自分の中に残っていた(恋愛を阻む)差別心に気づいた瞬間だったともいえる。だから彼は〈なんの身分差もない、やがて自分と同じような一高生になるはずの少年のマントに包まれて〉泣くのである。

 さらに斎藤は続ける。

 思えば『伊豆の踊子』と『雪国』はよく似た構造をもっている。〈国境の長いトンネルを抜けると〉ではじまる『雪国』。やはりトンネルを出たところで踊子たちと一緒になる『伊豆の踊子』。『伊豆の踊子』が一線を越えずに終わった恋愛未満の物語なら、『雪国』は一線を越えたことで恋愛の不可能性に気づいてしまった男女の物語だった。としたら両者は一対の物語だったのかも!

 文庫に解説を書いている作家や評論家の間でさえ、こんなに様々な読みがあるのだ。受験生が困るのは当然だろう。佐藤範子先生の提案を真剣に受け止めるべきではないか。