トルーマン・カポーティ『ここから世界が始まる』を読む

 トルーマン・カポーティ『ここから世界が始まる』(新潮文庫)を読む。カポーティの10代の頃書かれた初期短篇集。巻末に村上春樹が「解説 天才作家の天才的習作」を書いている。天才の言葉が2度も使われているが、キモは「習作」だ。やはりカポーティと言えども、10代の作品は習作に過ぎない。濃いいファンでもない限りわざわざ読むには値しないと私は思う。私はカポーティのファンだが、『冷血』を読むほどのファンではない。『ティファニーで朝食を』の中の「クリスマスの思い出」が大好きなのだ。

 さて、原著の「編集後記」が翻訳されて巻末に載っている。デヴィッド・エバーショフの文章を引く。

 

……カポーティの強力な才能の発露として見えてくるものがある。つまり、共感するということ。カポーティの作品では、部外者、他者――男でも女でも、また少年でも少女でも、社会(おおよび社会からの期待値)の外縁に住まう者――への共感が寄せられることが多い。最初期の短篇にあっても、カポーティが、世界の中心に生きていない、あるいは生きられない人物たちに、引き寄せられていることが見えている。ホームレス、さびしい子供、混血であることを隠して白人学校にいる少女、死を間近にした老女、南部の故郷を離れてニューヨークへ出たアフリカ系の女。(中略)こうして作品となったものを見ても、カポーティが多様な人物の生き方を想像し、共感する力を高めていった過程をのぞくことができる。円熟期に見られる人間への深い共感は、すでに初期の段階から養われつつあった。

 

 ドナルド・キーンが『声の残り』でカポーティ三島由紀夫の交流を書いていた。

 

 ニューヨーク滞在中、たったひとつ淋しい思いをしたのは、歌舞伎が見られないことだった、と三島(由紀夫)はある時書いて来たが、その実1957年の滞在は、彼にとって淋しく、またむなしいものだったのにちがいない。(中略)同じ年の春、東京で三島に歓待されたトルーマン・カポーティは、ニューヨークに来た三島に、頭から会おうともしなかった。これを聞いても、私は、さもありなん、と思っただけで、別に驚きはしなかった。というのは、カポーティという男は、私がそれまでに会った人物のうちで、最も不快、かつ信用出来ない人間の一人だったからだ。

 

 こちらの評価の方が私には信用できる。