高田里惠子『文学部をめぐる病い』を読む

 高田里惠子『文学部をめぐる病い』(ちくま文庫)を読む。副題が「教養主義ナチス旧制高校」となっている。主として戦前・戦後の旧制高校東京帝国大学出身のドイツ文学者が対象になっている。東京帝国大学で法学部でなく文学部を選んだことで、すでに立身出世の道を離れた二軍であること、その中でドイツ文学という英語フランス語に比べてマイナーな文学を選んだこと、そのドイツ文学とは教養主義と結びついたものであることを指摘し、さらに戦前のドイツ文学ではナチスと深く関係していたことを強調する。しかし、戦後彼ら―ナチスを称揚したドイツ文学者たちは口をつぐんでヘッセやトーマス・マンを語っている。
 「ヘッセやリルケやカロッサの紹介者と、ナチス文学の紹介者とは同一人物たちであり、しかも同時期に二つの役割を果たしていた……」。それが芳賀檀であり、高橋健二だと実名を挙げて糾弾する。高田里惠子は厳しく徹底して彼らの経歴を指摘していく。まるで容赦がない。他人事ながら読んでいてつらくなる。高橋健二訳のヘッセには若いころ世話になったのに。

……ドイツ文学の場合は、文庫のための翻訳はもはや森鴎外のような存在の仕事ではなく、旧制高校や大学予科のドイツ語教師の仕事となる。教養主義古今東西の偉大な書き手たちによる圧倒的な迫力の書物を広く紹介したが、しかしまた他方で、二流の書き手あるいは文化人を誕生せしめたのだった。

 竹山道雄の『ビルマの竪琴』も批判される。ヘッセの『車輪の下』も詳しく分析される。学校における男同士の友情を扱っている学校小説で、学校、少年、友情、挫折というモティーフがきれいに並んでいる。『車輪の下』人気は日本独特のものらしい。
 最後の章で中野孝次が取り上げられる。中野は戦前大工の子として生まれ、家庭の事情で中学校に進学できず、専門学校入学者資格検定試験を経て、熊本の旧制五高に入学し、1947年に東京帝国大学文学部独文科に進んだ。中野は出自の貧しさに強いコンプレックスを抱いていた。そのことを中野の自伝的小説の分析により鋭くえぐっていく。
 最初高田の徹底した批判、容赦のない攻撃に辟易して読んでいたのだが、その深い分析、強い説得力に魅了されている自分がいた。末尾の解説をこれまた容赦ない批判で定評の齋藤美奈子が書いている。そこにかつて斎藤が朝日新聞に紹介した書評が引用されている。

 いまやご高齢の旧制高校出身者には、いささかきつい一撃であろう。だが、それ以外の人にとって、これほど興味津々というか感慨深い本もない。真っ当な批評の書であるにもかかわらず、途中、何度も噴き出してしまった。
 ・舞台……旧制高校・帝大・軍隊
 ・時代……ファシズム下の昭和十年代
 ・登場人物……高名なドイツ文学者たち
 そんな設定の実録小説を読んだ気分。標題をつければ「車輪の上」。語られているのはインテリゲンチャの悲喜劇とでも評すしかない、ある世代の男たちの涙と栄光と勘違いの記録である。
(中略)法学部に進んで官僚になる出世コースにも乗れず、左翼運動に身を投じる勇気もなく、教養に生きる道を選んだ情けない(がリベラルな)ボク。帝大文学部は、そんな優越感と劣等感とが半ばした愛すべき文学青年たちの巣窟だった……。かかる観点からすると『ビルマの竪琴』も『車輪の下』も『きけ わだつみのこえ』さえも、特殊な「学校小説」としての相貌をおびはじめる。(中略)おもしろすぎる分、頭から湯気を拭いて怒る人もいそうだなあ。

 高田は東京大学大学院博士課程(ドイツ文学専攻)単位取得退学。現在、桃山学院大学教授とある。写真を見る限り林真理子なら毒を盛りそうな美人だ。