山本弘、その略歴と評価

 来週から東京京橋のギャラリー檜Cで山本弘展が始まる。会場に置くための資料として「山本弘、その略歴と評価」を書いた。それをここに紹介する。

 

 

山本弘、その略歴と評価

 

 山本弘は昭和5年(1930年)長野県飯田市近郊の村で生まれた。昭和20年、15歳のとき予科練に応募したが入隊できなかった模様。そのまま東京で終戦を迎え、しばらく東京で過ごした。熱心な軍国少年だったので、日本の敗戦でおそらく価値観が混乱し、ヒロポン中毒に陥った。それからは回復したがアルコール中毒になり、アルコール中毒は死ぬまで続いた。少年の頃から絵が

上手かったので、造形美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学したが、学費が払えなくて中退した。その後飯田市に戻り、地元の画家たちとリアリズム美術家集団を結成、時々飯田市内の画廊で個展を開いたりした。東京での発表は日本アンデパンダン展や平和美術展に出品するくらいだった。生前東京はもとより、飯田市以外での個展は一度もなかった。

 山本弘を特徴づけるものは3点ある。アンフォルメルと象徴派とアル中だ。アンフォルメル、特にフォートリエの影響を受けている。デュビュッフェのような子供の落書きを取り入れた絵もある。

 象徴派というのは、作品が多く自分の体験をモチーフにしている点だ。山本の「銀杏」という作品は、奥村土牛の「醍醐」という醍醐寺の桜を描いた絵の構図を借りていて、土牛の満開の桜に対して夜に屹立する銀杏を描いている。自分の人生は土牛と異なり華やかさはないが、存在感の強さでは負けないのだと言うように。

 30代と40代の2回、過多の飲酒による脳血栓で入院している。半身不随になり、若い頃先輩から筆が走りすぎると言われた達者な線は失われ、殴り描くような直線に変わった。しかし、それから山本の本当の絵が生まれた。山本は描く前から作品ができていた。描きながら完成させるのではなく、頭に浮かんでいる絵をキャンバスに定着させたのだ。だから制作は早く、晩年には3年で4回の個展を行い200点の油彩を発表している。

 だがアル中は山本の体を蝕み、治療のため1年間入院する。それも飯田市にはアル中治療の専門病院がないため、施錠された精神科の病棟への入院だった。4月に退院して間もなく自死する。1981年7月15日、51歳だった。

 亡くなったあと、友人たちが企画して飯田市で遺作展が開かれ、3つの会場に400点が展示された。その後飯田市美術博物館の館長井上正さんが評価し、50点ほどが同館に収蔵された。亡くなって10年後には美術評論家針生一郎さんが極めて高く評価し、東京京橋にあった東邦画廊で遺作展が開かれた。読売新聞にも大きく掲載され、『芸術新潮』にも取り上げられた。瀬木慎一さんは週刊ポストに紹介した。東邦画廊に続いて兜屋画廊、ギャラリー汲美、77ギャラリー、戸村美術、銀座K’sギャラリー、TS4312などでも個展が開かれ、そしてついに2023年に東御市立梅野記念絵画館で山本弘展が開かれた。

     ・

山本弘遺作展

2025年10月13日(月・祝)-10月18日(土)

11:30-19:00(最終日は17:00まで)

     ・

ギャラリー檜C

東京都中央区京橋3-9-9 ウィンド京橋ビル2F

電話03-6228-6361

http://hinoki.main.jp