半藤一利『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』を読む

 半藤一利『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』(岩波ブックレット)を読む。「昭和天皇実録」を読み込んで、開戦と終戦に関する昭和天皇の関与を分析している。実は1年半前にも読んでブログに紹介していたのに忘れていた。だが何度読んでも良い本だ。

 いよいよ戦争が不可避かとされた1941年(昭和16年)10月13日、昭和天皇内大臣木戸幸一と会って懇談した。

 

……木戸との懇談のあった直後に、近衛内閣が倒れた(10月16日)。倒れたというより、さきの9月6日の御前会議で決められた「10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合」のギリギリの日が訪れて、近衛はにっちもさっちもいかなくなり自分の職責を投げだしたのである。陸軍が御前会議の決定をタテに開戦決意を迫ったとき、肝心の海軍は和戦の決は首相に一任すると申し入れた。この瞬間、戦争の主役となるべき海軍の曖昧な態度をテコにして、はっきりと自分の信念に立って「和」を主張すべきであったのにそれをせず、宰相近衛は無責任にも逃げ出したのである。陸海軍の意見不一致をいいがかりにして。

 後に出現したのが東条英機内閣である。

 

  ここで近衛が踏ん張れば戦争は回避できたのかもしれない。

 さらに10月30日、軍令部参謀高松宮天皇を訪ね、「海軍の真意は、できるだけ日米戦争を避けたいと思っている。自信をもってはいない」と意味のことをいった。天皇海軍大臣軍令部総長を呼ぶ。

 

軍令部総長に対し、長期戦が予想されるも、予定どおり開戦するや否やにつきお尋ねになり、大命が降れば予定どおり進撃すべきこと、明日委細を奏上すべきも、航空艦隊は明日ハワイ西方の1800浬に達するとの奉答を受けられる。(……)海相より、人員・物資共に十分準備を整え、大命一下に出動できること、(……)さらに両名より、軍隊は士気旺盛にして、訓練も充実し、司令長官は十分自信を有していること、さらに一同必勝の覚悟を持していること等の言上あり、両名退下の後、天皇内大臣をお召しになり、海相軍令部総長に下問した結果、両名共に相当の確信を以て奏答したため、予定どおり進めるよう首相へ伝達すべき旨を御下命になる。

 

 終戦について、半藤は「おわりに」に書いている。

 

……戦争はある意味では感情的になってはじめるのは簡単だが終わらせることはそれこそ至難の大業であったと、わたくしは再三にわたって書いている。

 

 各地で日本軍の敗走が続いている。昭和20年3月の大空襲で東京の下町も壊滅し、4月ドイツのヒトラーが自決する。6月沖縄での組織的な抵抗も終わろうとしていた。6月6日最高戦争指導会議が開かれ、「七生尽忠の信念を源力とし、地の利人の和をもって飽くまで戦争を完遂し、もって国体を護持し皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す」との戦争指導基本大綱が決定された。6月8日に御前会議があり、河辺参謀次長が「本土に敵を迎えての作戦は、敵の上陸地点に全軍を機動集中し、大いなる縦深兵力をもって、連続不断の攻撃を強行することができるのである」と豪語し、豊田軍令部総長が「敵全滅は不可能とするも、約半数近いものは水際到着前に撃破し得る算ありと確信する」と唱和した。

 6月9日天皇は梅津参謀総長より奏上を受ける。満洲と中国にある兵力は、すべてを合しても米軍の8個師団ぐらいの兵力しかなく、縦深戦力は内地の5分の1程度で、弾薬保有量は近代的な大会戦をやれば1回分しかない、と。さらに12日、大命による査察官として日本全土の兵器廠、各鎮守府、航空基地を見て回った海軍大将長谷川清から報告を受けた。「自動車の古いエンジンをとりつけた間に合わせの小舟艇が、特攻兵器として何千何百と用意されているのであります。(……さらに)そのような簡単な機械を操作する年若い隊員が、欲目にみても訓練不足と申すほかはありません」と。

 政府は8月入っても、まだソ連仲介による和平工作に望みを託していた。8月6日広島に原爆投下、9日ソ連が日本に宣戦布告。そして御前会議でポツダム宣言の受諾について議論が交わされ、最後に天皇が、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする案を採用することを決定し、スウェーデン政府を通じて連合国側に伝達される。

 8月14日御前会議で国体の護持を巡ってなお会議は紛糾した。それに対し天皇が戦争終結を決意した旨語り会議は終結した。実は徹底抗戦派の軍部は前日クーデタ計画を完整していたので、間一髪だった。

 

 

 

「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦 (岩波ブックレット)

「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦 (岩波ブックレット)

  • 作者:半藤 一利
  • 発売日: 2015/09/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)