メジューエワ『ピアノの名曲』を読む

 イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲』(講談社現代新書)を読む。副題が「聴きどころ 弾きどころ」で、まさにこのような内容。著者のメジューエワはロシアのゴーリキー生まれ。5歳よりピアノを始めモスクワの音楽大学で学んだあと、オランダロッテルダムの国際コンクールで優勝し、ヨーロッパで活躍していた。日本人と結婚して日本を本拠地に演奏活動をしている。先々週の11月18日にも上野文化会館でピアノリサイタルを開いている。私は仕事と重なって行かれなかったが。
 本書は、編集者と夫と3人で話したことを編集者が原稿にまとめたものだという。内容はかなり専門的できわめて難しく、しかしとても面白かった。バッハからドビュッシー、ラベルまで10人の作曲家を取り上げ、その16曲をていねいに紹介している。難しいのは豊富な譜例を挙げていて、弾き方を詳しく書いているからだ。実演者だったらとても参考になるのだろう。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番について、その第2楽章の解説の途中から、

 最後はやっぱり天に上っていくわけですが、その始まりは小節130の7拍目からでしょう(譜例3-19)。長いクレッシェンドとディミヌエンドが何回も繰り返されて盛り上がっていく中で何度か出てくるスフォルツァート(小節146、147、148、151、152、153、譜例3-20)。スフォルツァートの後にディミヌエンドしてピアノ。これは解釈的に難しいですね。もちろん、いいスフォルツァートが必要。テンションが大切です。でも現世的な強い音じゃない。自分の気持ちも入れ過ぎてしまったら違うものになってしまう。注意が必要です。その後さら盛り上がってもフォルテは一つだけ(小節158、譜例3-21)。酔ってはいけないと思います。冷静さが必要。エモーションを超えなければならないんです。

 と全編こんな調子。でもそんな技術的なことばかりでなく、「ゲンリヒ・ネイガウスの有名な言葉ですが、「才能とは何か。それはパッションと知性である」。ベートーヴェンの作品の深みを表現するためには、膨大な知識と強烈なパッションと優れた演奏技術が必要です」と言っている。
 シューベルトの「4つの即興曲」作品90より第3番について、

 ……あと、実際にも物理的な声部間のバランスが難しいですね。ピアニッシモがちょっとでも強すぎたら、わあ、どうしよう、となる。メロディを強めに弾けば内声の伴奏も少し弾きやすくなります。でも本当のピアニッシモでメロディを弾くと、内声の伴奏がさらに難しくなる。とても細かい名人芸。集中力、聴く能力、手・指先のタッチとバランスの繊細さ。そこで好きになったらすごく魅力的な世界ですが、我慢できないという人もいるかもしれません(笑)。

 どの曲についても、「おすすめの演奏」というのを挙げている。これがとても興味深い。私たちが知っているピアニストと多少違っている。欧米のピアニストよりロシアのピアニストの方が多い。すると、私たちのクラシックの演奏家に関する知識は欧米のそれに偏っているのではないかと反省させられる。欧米のレコード会社の常識を日本のレコード会社が踏襲していることは十分ありうることだろう。メジューエワの推薦する演奏を見てみる。
・バッハ『平均律クラヴィーア曲集』:スヴァトスラフ・リヒテル。とにかく音が深くて美しい。いわゆるバロック的な演奏解釈とは違いますが、それを超えた素晴らしさ。あと、第1巻だけの録音ですが、ホルショフスキー
・バッハ『ゴルトベルク変奏曲』:ロザリン・テューレック。音がとても美しくて、複雑なポリフォニーをはっきりと聞かせてくれます。
モーツァルト『ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」』:ホルショフスキーとデ・ラローチャホルショフスキーはなんといっても音が立派で美しい。ラローチャはひたすらシンプルでピュアな感じ。
ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第14番「月光」』:シュナーベル。すべての声部のバランス、ポリフォニー、ハーモニーの見せ方が素晴らしい。シンプルで見事です。ほかにはクラウディオ・アラウとヨーゼフ・ホフマン。
ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第32番』:アファナシエフ(2014年録音)とリヒテル(1975年録音)。
シューベルト『四つの即興曲』作品90から第3番:アルトゥール・シュナーベルヴィルヘルム・ケンプ、マリア・グリンベルグ
シューベルト『ピアノ・ソナタ第21番』:リヒテルゼルキン、マリア・ユーディナ、アファナシエフ。ユーディナについては「変わっているけれど、すごく強くてやっぱりおもしろい」と言っている。
シューマン子供の情景』より「トロイメライ」:シュナーベルホロヴィッツ。しかし最終的にはやっぱりコルトー
シューマンクライスレリアーナ』:コルトーソフロニツキー
ショパン『練習曲』作品10より第3曲「別れの曲」:コルトーとアラウ。
ショパン『ピアノ・ソナタ第2番』:ゲンリヒ・ネイガウス。私にとって最もすばらしい演奏と言っている。ほかにコルトーとイヴ・ナット。
・リスト『ラ・カンパネラ』:ロザリン・テューレックがすばらしい。ほかにフォン・ザウアー、パデレフスキ、ジョン・オグドン
・リスト『ピアノ・ソナタ ロ短調』:ソフロニツキーリヒテル、アラウ、アファナシエフ、デ・ラローチャ
ムソルグスキー展覧会の絵』:マリア・ユーディナ、アファナシエフとルドルフ・フィルクスニー。
ドビュッシー『ベルガマスク組曲』より第3曲「月の光」:ギーゼキングとフィルクスニー、ヴェデルニコフ
ラヴェル『夜のガスパール』:サンソン・フランソワギーゼキングミケランジェリ、ペルルミューテル。


 ロシアのギレリスの名前がどこにもないのはなぜだろう。一度メジューエワの演奏を聴いてみたい。