青柳いづみこ『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』がすばらしい!

 青柳いづみこ『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』(白水社)がすばらしい。アンリ・バルダ? 聞いたことのないピアニストだ、大昔のピアニストか? と思ったが、本の表紙に写っているピアニストの写真は古いものには見えない。読んでいくと分かるのだが、1941年生まれの現役のピアニストだった。
 青柳がほとんど絶賛する70歳を越えたピアニストがなぜ無名なのか。青柳はバルダのリサイタルを聴くためにフランスの小さな街まで出かけていく。バルダの資料を集め育った家を見るためエジプトまで行く。六甲でピアノ講習会をすると聞いて、取材のためバルダの通訳まで引き受ける。
 いや、それより冒頭「プロローグ 2012年7月12日」で、まず浜離宮朝日ホールのリサイタルでのアンコール曲からバルダの評伝を始めている。アンコールの1曲目はショパンの『ノクターン作品32-1』だった。それで終わってしまうのかと思っていたら、2曲目に弾いたのはその日のプログラムの最初の曲、ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』だった。青柳はこの日道路が混雑していてタクシーが遅れ、最初の曲『高雅で感傷的なワルツ』を聞き逃してしまっていた。

 どのあたりで涙が出てきたのだろう? いくら考えても思い出せない。メランコリックなメロディがしみ入る第2曲か、ワルツの2拍子目と3拍子目の隙間から寂寥感が漂ってくる第3曲か。
 なにより、プログラムで聴き逃したこの曲を聴けたのが嬉しかった。よくぞアンコールで弾いてくれた。コンサートの冒頭には不在だった、2階席の私が見えたのではないかと思ったほどだった。

 見事な導入の仕方だった。まるでミステリを読むようにぐいぐいと読者を引き込んでいく。
 なぜ青柳の書くピアニストの評伝がいつも見事なのか。自身がドビュッシーを得意とするプロのピアニストであり、また吉田秀和賞を受賞したこともある優れたエッセイストでもあるからだ。青柳の書くピアニストの評伝はどれを読んでも外れということがない。曲の分析、演奏の歴史、具体的な弾き方、指の扱い、演奏前のピアニストの心理、どれをとっても具体的で分かりやすい。見事としか言いようがない。ピアニストの評伝に限れば、較べられるのは吉田秀和くらいだろう。そして青柳には吉田にはないプロのピアニストとしての実績がある。
 2011年紀尾井ホールで開かれたリサイタルのライヴ録音がフランスのレーベルからリリースされた。そのCDについて青柳は書く。

 曲目はブラームス『8つの小品作品76』より1〜5番。ベートーヴェンソナタ第28番』、ショパン舟歌』『4つのバラード』。
(中略)
 バルダは私がCD制作に反対していると思ってか、リリースされても送ってこなかったが、たまたま川野洋子から借りて聴いた。リリースされてから半年以上たったころのことである。
 圧倒的だった。ねじふせられたと言ったほうが正確かもしれない。
 ブラームスは、シャトールーで聴いた作品76の4曲に第3番が加わっている。
 第1番の冒頭からして、いきなり心をわしづかみにされるような演奏だ。深く、やさしい音。中身のつまった哀愁。2番はシャトールーでも一番印象に残った曲で、場末のジンタのような哀愁がたまらない。師のティエガーマンも同じ曲を録音しているが、それらははるかに穏やかな印象がある。3番は一転して鐘のようなきらめく音色で、うっとりするような響きに包まれる。4番は上声とバスの対話が見事。5番は暗い情念がほとばしる。どうしてレビューがショパンについてばかり語り、ブラームスにはふれていないのか不思議でならない。
(中略)
 しかし、何がきっかけだったか、それまではむしろ批判的に聴いていたのに、突然、音楽が怒濤の勢いで自分の中に侵入してくるのを感じた。嵐の海を外から眺めていたのに、急に渦にからめとられた感じだ。逆巻く波がこちらまでのびてきて、あっという間に飲み込まれ、ころがされ、あちこちゆすぶられていいように翻弄される。
 長くひきのばされた和音の最後の響きが消えると、呆然自失している自分がいた。
 やはり圧倒的だった。

 これを読んでアンリ・バルダを聴いてみたいと思わずにいられるだろうか。でもAmazonで検索すると、CDはすべてすでに品切れだった。演奏会がないかとGoogleで探してみた。私は本書を3月5日に1日で読んだ。何とその3日前の3月2日に、NHKeテレで、NHK交響楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の演奏が放映されたばかりだった。見たかった!
 青柳いづみこはピアニストで文筆家という二物を与えられた人。お祖父さんが青柳瑞穂というフランス文学者で、私もむかしお祖父さんの翻訳したフランス文学のお世話になったのだった。青柳いづみこの書いたものは、『翼のはえた指 評伝安川加壽子』『ピアニストが見たピアニスト』『グレン・グールド 未来のピアニスト』『我が偏愛のピアニスト』等々、どれもすばらしかった。


青柳いづみこ『我が偏愛のピアニスト』を読む(2013年5月6日)
青柳いづみこの『グレン・グールド』がすばらしい(2012年11月22日)
青柳いづみこ「翼のはえた指」−−弟子の書いた優れた評伝(2010年2月27日)
青柳いづみこ「ピアニストが見たピアニスト」(2010年2月19日)
ピアニストが読む音楽マンガ(2008年3月9日)


アンリ・バルダ 神秘のピアニスト

アンリ・バルダ 神秘のピアニスト