青柳いづみこ『パリの音楽サロン』(岩波新書)を読む。副題が「ベルエポックから狂乱の時代まで」。カバーの紹介文を引く。
コンクールがなかった19世紀から20世紀初頭、音楽サロンの女主人は芸術家たちを支援し、彼らはサロンから世に出ていった。時代が進むとサロンは貴族の邸宅以外でも開かれ、異なるジャンルの出会いの場、前衛芸術の誕生の場へと性格を変えていく。時代の中の音楽サロン、様々な芸術家たちの交流を生き生きと描く。
青柳はピアニストにして音楽評論家、吉田秀和賞を受賞している。仏文学者青柳瑞穂の孫でもある。
現在のショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクールに相当するものが19世紀ではサロンだった。サロンは貴族夫人が主催し、有望な演奏家や作曲家、文学者などを招き、彼らを世間に紹介した。ショパンもフォーレもラヴェルもサティもサロンからデビューした。サロンの女主人が評価して世に出ることができた。そのことを現在のコンクールと比較して青柳は書く。
国際コンクールでは、さまざまな経歴のさまざまな世代の審査員たちが、さまざまな国のさまざまな経歴のさまざまな資質の若者たちを審査する。当然そこには、さまざまな政治的要素、国家や民族の都合、主権者側の都合、楽器メーカーの都合、審査員や教師たちの都合がからみあう。
ときどき、音楽に民主主義は似合わないと思うことがある。誰か一人の審査員がすばらしいと思っても、他の審査員がよい点をつけなければ、勝ち抜くことはできない。1980年のショパン・コンクールでは、イーヴォ・ポゴレリチの第3次予選敗退を不服としたアルゲリッチが審査員を辞退してしまった。
ショパンがショパン・コンクールに出場したら、1次予選で落ちるだろうと、音楽学生たちが笑い話にしているという。ラヴェルもローマ大賞に5回失敗した。
同じことを私もVOCA展の審査について書いたことがある。複数の審査員が選ぶと寅さんが選ばれることになると。私が一人で映画を見に行くならゴダールやタルコフスキーになるが、家族と見に行ったのは寅さんだった。
フランスの19~20世紀にかけてのサロンの女主人たちが紹介される。そこに出入りしていた芸術家たちも数多く登場している。プルーストの『失われた時を求めて』はリアルなサロンの世界を描いたものだった。それにしてもサロンの女主人たちは性的に奔放で驚いてしまう。