青柳いづみこの『グレン・グールド』がすばらしい

 青柳いづみこの評伝『グレン・グールド』(筑摩書房)がすばらしい。著者がしばしばリサイタルを開いている現役のピアニストであることから、ピアノの演奏技術についても詳しく分析している。しかしそればかりではなく、たくさんのコンサートの記録−録音や映像を聴き、グレン・グールドのピアノ教師の影響や、その結果からバッハを得意としたこと、ロマン派を不得手としたことを説得力を持って解説してくれる。

 グールドが録音に活動を限定したことは、専門家の間では誤解を招きかねない行動だった。つまり、実演での弱さを隠すために、編集でその弱さをとりのぞくことのできる録音を選んだのだろう、といったふうに。
 編集で思い出すのは、ホロヴィッツの〈1965年カーネギー・ホール復活ライヴ〉である。12年のブランクを経て開いた歴史的コンサートの録音は、その神業のようなピアニズムで語り草になり、長い間音楽学生たちの憧れの的だった。しかし、2003年に発売された無修正盤は、実際の演奏にはかなり危ないところもあり、編集作業で美化されていたことを示している。(中略)
 これに対してグールドは、あまり調子がよくないとき、あるいは不得手な曲目を弾いたときをのぞいては、実演でもほとんど編集の必要がない、そのままライヴのレコードをつくることができるほど完璧な演奏をするピアニストだったのだ。

 また著者の薦めるグールドの名演盤も購入の役にたちそうだ。

(1959年)8月25日には(キャンセルしてしまったザルツブルク)音楽祭の振り替えのリサイタルを開く。曲目はスウェーリンク《幻想曲》、シェーンベルク組曲作品25》、モーツァルトソナタK330》、そして《ゴルトベルク変奏曲》。リサイタルの模様は、ソニーからリリースされたライヴ録音で聴くことができるが、空前絶後の名演である。

 空前絶後の名演と聞いては入手しないわけにはいかないだろう。

 ライヴ録音の白眉は57年5月、ベルリンでカラヤンと共演したベートーヴェン《ピアノ協奏曲第3番》だろう。豊かなホールトーンに包まれ、グールドの歌謡性や要所要所を締めた端正な音楽づくり、活き活きしたリズム感が余すところなく再現されている。
 構成もすみずみまで考え抜かれながら自然で、第1楽章など、ブラームスでは否定した第1主題と第2主題の対比を、みずからさりげなくテンポをゆるめることで実現させている。カデンツァでもアルペジオのしっぽをすっとはねあげ、まさに彼が《皇帝》で否定したような「地獄の噴煙を巻き上げて」弾きまくっている。第2楽章も、カラヤン・トーンに包まれて非常に精神的なものを感じさせる演奏だ。たまに余計なルバートもみられるが、音そのものが十分にモノを言っているために、旋律線をいじくる必要がない、理想的な状態だ。第3楽章の冒頭も、羽根のように軽やかなタッチで弾かれるが、オーケストラのダイナミックレンジセーブが完璧であるため、ブラームスのときのように無理にフォルテで始める必要がない。ときどき突っ走りそうになるグールドをカラヤンがやさしくサポートしている。木管楽器との対話もしなやかで楽しげだ(オーケストラのフゲッタ部分で多少混乱が起きているが)。

 これまた聴かなければならない。
 ジュディス・パールマンが、グールドのショパンの《ソナタ第3番》の正規録音を批判して、テープが何回かの「テイク」をつぎはぎしたものであり、「グレンはその演奏を生ではできないであろうとほのめかした」ところ、

 すると数日後グールドは、ジュディスをCBCのスタジオに訪ね、シューマンベートーヴェンで手ならしをしたあと、ショパンの3番を最後まで弾きとおした。
 ジュディスがデイヴィスに語ったところによれば、「それは人が一生のうちに一度でも聴ければ良いと望む超絶的な音楽体験のひとつだった」という。

 中川右介グレン・グールド』(朝日新書)の「あとがき」に「グールドのコンサートでの演奏とセッション録音とを聴き比べ、ああだこうだと論じるのは専門家に任せ(この視点で書かれた本としては、すでに青柳いづみこ著『グレン・グールド 未来のピアニスト』(筑摩書房)という面白い本がある)、グールドがいつどこで何を弾いたのか、ひたすらそれを追いかけた」とあった。それで本書を読んだのだが、中川の紹介したグールドのエピソードがそのまま青柳の本に書かれていて、中川のネタ元がこれだったことが分かり、だから引用文献代わり本書を紹介したのだろう。お陰で良い本を読むことができた。
 青柳いづみこは、フランス文学者青柳瑞穂の孫にあたる。ご覧のように筆が立ち、文筆家としても優れた才能を示している。天が二物を与えた少数の幸福な人たちの一人らしい。
 青柳のピアノの師、安川加壽子の伝記『翼のはえた指』もすばらしかった。
青柳いづみこ「翼のはえた指」−−弟子の書いた優れた評伝(2010年2月27日)
 また『ピアニストが見たピアニスト』も良かった。
青柳いづみこ「ピアニストが見たピアニスト」(2010年2月19日)
 青柳いづみこ「ボクたちクラシックつながり」も。
ピアニストが読む音楽マンガ(2008年3月9日)


グレン・グールド―未来のピアニスト

グレン・グールド―未来のピアニスト