カズオ・イシグロ『日の名残り』を読んで

 カズオ・イシグロ日の名残り』(ハヤカワepi文庫)を読む。イシグロは以前、『浮世の画家』と『夜想曲集』、『私を離さないで』を読んだが、『私を〜』には圧倒された。ノーベル文学賞受賞と聞いたとき驚いたが納得もした。
 『日の名残り』は淡々と進行していく地味な小説だ。イギリスの大きなお屋敷に執事として雇われているスティーブンスの一人称で語られていく。そのダーリントン・ホールは2世紀にわたってダーリントン家が所有していたが、最近アメリカ人のファラディの手に移った。大勢いた先代の召使たちはほとんど辞めていって現在4人だけで管理している。スティーブンスは相変わらずそこに執事として雇われている。新しい雇主が5週間ほどアメリカへ帰ってくるので、2、3日どこかへドライブしてきたらとスティーブンスに休暇をくれる。車も貸してくれて。
 スティーブンスは昔一緒に働いていた女中頭のミス・ケントンを訪ねる旅を計画する。彼女が望めばまた一緒にお屋敷に奉公しようと。一人で車を運転して6日間の旅に出かける。その間、ダーリントン・ホールに勤めていた過去20年間ほどを回想している。
 時代は第1次大戦後から第2次大戦が終わって少し経ったころだ。スティーブンスは執事の仕事に強い誇りと自負を持っている。仲間の執事たちと偉大な執事とは何かと議論したことがあった。召使たちを組織し大きな行事を成功させる手腕、品格があること、さらに名家に仕えていること等々。スティーブンスは謙遜しながらも内心は自分がその資格にかなっていることを自負しているのだろう。
 主人が政治に携わった折りなど、お屋敷での非公式の会合に執事として万全の接待をすることによって、その会議が滞りなく進められたならば、国の政治に少しでもかかわることができたのだと満足している。
 それらがすべて一人称で語られる。小説の叙述にはほとんど反対意見が挟まれない。読者はイギリスの執事は高い地位にあると思わされる。旅行の途中、鄙びた村でガス欠になり村人の世話になるが、都会から紳士が来たと村人たちが集まってくる。スティーブンスは執事とは言わずにチャーチルにも会ったことがあると言う。翌日止めてある車まで送ってくれた医師が、あなたはどこかの召使ということはないかと問う。このとき初めてスティーブンスの客観的な地位が明かされる。イシグロの構成の巧みさが分かるのはこういうところだ。みごとなものだと思う。
 最後のシーンになって不覚にも涙が流れてしまった。その点は同じくイギリスの作家ジョン・ル・カレの『パーフェクト・スパイ』を思い出した。
 しばらくカズオ・イシグロの作品を読んでいこう。


日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)