加藤典洋『敗者の想像力』を読む

 加藤典洋『敗者の想像力』(集英社新書)を読む。これがとても良かった。初めに敗戦後について語る。小津安二郎の映画が敗れることの経験の深さを表現している。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』は、国家が原子爆弾ではなくクローン技術を発明する方向に技術革新を進めていったらどうなったかという構想のもとに作られている。イシグロの小説の主人公たちが「かくも従順に、抵抗もせず、不当なことを受けとめる」点で、敗者の想像力と共通していると。
 戦後の日本文学に現れた「第三の新人」について、戦後の「敗北」を受けた最初の文学世代であると指摘する。自らの「正しさの不在」と「無力の現前」に向き合うことからしか人は出発できないとの自覚を持った世代であると。
 そして大江健三郎の初期の作品を、1950年代の後半、占領期の日本の屈辱をありありと描く作品だと高く評価する。
 敗者について加藤が書く。

 この敗者の経験の拡がりは、どこに足場をもつのだろうか。(中略)
 さて、先の問いに関しては、次の二点が大切だろう。
 一つ、人はなぜ敗者になるのか。命を惜しんだからである。その結果、彼は死なずに奴隷となる。その起点には屈辱がある。
 二つ、ではなぜその敗者が、やがて勝者よりも強くなるのか。敗者として新たに経験する世界が、勝者として新たに経験する世界よりも、広くて深いことが、ありうるからである。
 つまり、だれもが敗れれば即、敗者になるわけではない。第一に、彼は、自分が「敗けた」ことを受けとめるのでないといけない。いくらでもそれを打ち消す道はあるからだ。そこでは「屈辱」(の受け止め)が敗者を敗北につなぎとめる。敗者はその結果、「自立」を促される。第二に、彼は、「敗けた」ことによって新たに彼の前に拡がる経験の領域を全身で生きるのでないといけない。何が「敗けない」では手に入らない経験であるのかを見きわめ、身体でそれを知る感受性を養う必要がある。そうでないと、彼は小ぶりの勝者の模倣者となるほかない。それとは違う、奴隷の生き方とはどういうものか。
 敗者であろうとすれば、彼は「一つの岐路」の前に立たされるのである。

 その時、加藤は吉本隆明鶴見俊輔を提示する。
 この後、手塚治虫宮崎駿が取り上げられる。しかし、本書の圧巻は、最後に置かれた二つの章、「大江健三郎の晩年」と「『水死』のほうへ――大江健三郎と沖縄」だ。
 「晩年」では、「沖縄「集団自決」裁判」が大きな事件となった。大江の『沖縄ノート』を標的に曽野綾子らが、そこに書かれた日本軍の強制による集団自決はなかった、軍の命令はなかった、当時の沖縄の守備隊長らに対する名誉棄損だと大江を訴えたのだった。大江はこの裁判体験から『水死』を執筆したと加藤は書く。そして『水死』が詳しく分析される。
 加藤の『水死』論はすばらしいものだ。これを機に『水死』を読み直してみよう。
 本書は取り上げた対象も幅広く、教えられることが多かった。加藤の著書を読んでいってみようと思う。

敗者の想像力 (集英社新書)

敗者の想像力 (集英社新書)