吉本隆明『日本語のゆくえ』を読む

 吉本隆明『日本語のゆくえ』(光文社)を読む。東京工業大学で「芸術言語論」講義として発表したのを書籍化したもの。4つの章が「芸術言語論の入口」「芸術的価値の問題」「共同幻想論のゆくえ」「神話と歌謡」となっており、最後の第5章が「若い人たちの詩」という構成になっている。
 読み進めて5章に至って、以前読んだことに気がついた。調べてみると、2008年と2010年に読んでいて、今回が3回目だった。しかもブログに紹介までしている。ちょっと情けなくなった。
 さて、講演録だけあって、吉本としては論文よりずっと易しく語っている。自著解題といった趣だ。
 日本の詩人について、自分の詩が西欧の詩と等価な意味合いを持っていることを常に意識してきたのが吉増剛造伊東静雄、吉田一穂だという。この方法はうまく翻訳すれば西欧の詩人や読者にはすぐによく理解されるだろうが、日本の読者には難解で、もしかすると敬遠されがちになるのではないか。
 立原道造は『新古今和歌集』をお手本にして、どうしたら自分の詩を伝統的な古典詩と等質化できるかをモチーフとした。立原はたぶん詩でもって日本の古典的な和歌とつながっていた唯一の現代詩人だと思うという。
 さらに吉本は中原中也を評価する。中原のほんとうにいい詩は、日本の古典的な感性とダダイスムないしシュールレアリスム的なものが継ぎ目なくうまく整合している。中原の詩も古典として残るだろうという。
 芸術の価値について語っているところが興味深かった。芸術には「自己表出」と「指示表出」の二つの面がある。自己表出とは自分が自分に問うという問い方の問題で、これが芸術的価値だという。指示表出とは耳や目など感覚からやってくる表現で、物語性として芸術の価値に間接的に関与するという。「これは芸術一般にいえることだろうと思います」と書いて、

 絵画を例にとれば、色をどう使うか景色をどう描くかという問題より、描く以前に画家がもっているはずの自分が自分に問う自己表出性が問題で、それがいかに豊富であるか否かが絵画の芸術的価値を決定します。
 音楽でいえば、技術的にうまく弾けたとか弾けなかったということではなく、その人が自分に問う音楽性、それがどれだけ豊富であるか豊富でないかという問題が音楽の芸術的価値の根幹をなします。その人がどういう演奏家で、どんな曲をどのように弾いたかということは芸術性に〈間接的な影響〉は与えるでしょうが、直接的にはどういう曲目をどう弾いたかということは問題にならない。あるピアニストが弾いた曲に芸術的価値があるかないかということは、その人が絶えず日常的に問うている音楽性が決定すると思います。
 音楽であれ文学であれ絵画であれ、自分が自分に発する問いが声になるかならないかは重要ではない。重要なのはそうした自己表出がどれだけ豊かかということです。

 これは極めて重要なことだと思う。なぜあんなに巧みに描く小磯良平の絵がつまらないか、平山郁夫が退屈なのか、まるで小学生並みに下手くそな丸木スマの絵があんなにも魅力的なのか、それらのことのヒントがここにあるのではないか。
 共同幻想についての章も神話と歌謡論もおもしろかった。やはり吉本隆明は優れた思想家だと思う。
 ここでちょっとだけ付記しておけば、吉本の「自己表出」について、長谷川宏が『ことばへの道』(講談社学術文庫)で批判している。自己表出そのものを批判しているのではなく、吉本が『言語にとって美とはなにか』(角川文庫)において言語の発生を比喩的に語った一節で、自己表出の段階に至るまでの意識が、自然的対象を眼前にした単独の意識と規定されていて、他者に対する関係という視点は、言語が最小の成立条件を満たして存在するにいたったのちにはじめて登場してくる、とした点を問題にしている。長谷川はこれをマルクスの『ドイツ・イデオロギー』を引きながら論証しているが、それは妥当な批判だと思われる。


日本語のゆくえ (知恵の森文庫 t よ 4-3)

日本語のゆくえ (知恵の森文庫 t よ 4-3)