吉行淳之介『暗室』について

 丸谷才一『樹液そして果実』(集英社)に吉行淳之介の『暗室』についての小論が載っていた。吉行は私がもっとも好きな作家の一人だ。

 吉行さんの作品のなかから1冊だけあげるとすれば、『暗室』だらう。短篇集を逸することができないと言ひ張る人もゐるに相違ないが、やはり中身の詰り具合が違ふ。いつぞや『近代日本の100冊を選ぶ』といふ企画のときは、他の出席者の、『砂の上の植物群』を取るといふ意見に従つたけれど、あれは何しろ時間に追はれてゐる座談会だつたし、それに『砂の上の植物群』にもまた別種の趣があるので、言ひ立てることをしなかつたのだ。しかし厳密に言へば、成熟といふ点で大違ひの出来だと思つてゐるし、今度『暗室』を読み返してみて、そのことをいつそう確認した。

『暗室』を読んだのはもう40年も前だ。そんなに良い作品だったかと読み直してみた。たくさんのエピソードがあまり前後の関連なく綴られていく。そのことは志賀直哉の『暗夜行路』を思い出させる。そして吉行の重要なテーマの一つである「性」が追求されていく。いや「追求」と難しい言葉を使ったが、数人の女友達との性行為や関係が書かれていくのだ。
 40年ぶりの読書は楽しいものだった。吉行淳之介の世界に浸ることができた。しかし読み終えてみて、吉行の最高傑作かと言えば、そうは思えないのだった。これも数年前に読み直した『砂の上の植物群』もそれほど大きな評価をすることができなかった。実は性について書かれているのがちょっと苦手なのだ。
 では何が良いのか。長篇では『闇の中の祝祭』とか『星と月は天の穴』なんかの方が良かったのではないか。もっともこれらももう長いこと読み直してないので、断定はできないが。
 確実に言えると思うのは、吉行で良いのはやはり志賀直哉同様に短編小説だろうということだ。吉行の短篇小説をもう一度読み直してみよう。
 丸谷才一吉行淳之介小論の末尾を紹介して終わりとする。

……ここで一言、そつとつぶやくことにするが、まともな本をあんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である。

 先日取り上げた由良君美のことを、ふっと思い出したりした。


暗室 (講談社文芸文庫)

暗室 (講談社文芸文庫)