丸谷才一『別れの挨拶』を読む

 丸谷才一『別れの挨拶』(集英社)を読む。丸谷は2011年文化勲章を受章し、翌2012年10月に亡くなった。本書は丸谷の死後集英社の編集部が編集して刊行されたエッセイ集だ。
 いつもながら丸谷のエッセイは軽妙で洒脱で含蓄がありおもしろい。自己肯定が多少強いかなという印象を持たないわけではないが、喜寿寸前まで生き、文化勲章まで受章したのだから、あえて文句を言うこともあるまい。
 まずその文化勲章受章のとき、勲章を受けとった後で挨拶する「お礼言上の役」を勤めた。宮内庁が用意した「御礼言上書」というのを、許可を得て書き直した。
 その宮内庁が用意した「御礼言上書」

 このたびは文化勲章を拝受いたしまして私共の栄誉これに過ぐるものはございません
 私共はこの栄誉を体しそれぞれの分野において一層精進を重ねる決意でございます
 ここに一同を代表し謹んで御礼申しあげます

 これに対し丸谷が書き直した挨拶は下記の如し。

 このたびは文化勲章をいただきまして、まことに光栄なことでございます。
 わたくしたちはこの光栄を喜び、それぞれの仕事にこれまでどほり励んでゆきたいと存じます。
 一同を代表して謹んで御礼申しあげます。

 長谷川櫂『子規の宇宙』(角川選書)の書評において、長谷川を高く評価する。

……そして長谷川は、俳句、短歌での子規の功績と同じくらゐ、散文への貢献を評価する。明治年間の日本は、書き言葉と話し言葉のはなはだしい乖離に悩み、近代化のためには新しい文化が必要だと考へながら、それがうまく入手できず困つてゐた。そのとき寝たきりで暮す子規は、文章を口述して家族や友人に書き取らせるといふ形で書いたため、おのづから「簡潔な口語文体」が出来あがつた、といふのである。
 在来このことは、虚子、漱石などによる写生文の運動としてとらへられてゐた。それを長谷川は子規個人の事業といふ面にしぼり込んで顕彰する。百年前の東京根岸の家。左の腰が腫れて痛み、足に水が溜まり、風船玉のやうに腫れあがつてゐる35歳のカリエス患者の、布団から動けず、しかし働きつづける現場に立会ふ長谷川の視力のせゐで、文学史の転回点が明らかにされた。
「子規といえば明治の俳人、俳句と短歌の改革者と思っている人が多いのだが、子規の仕事は俳句と短歌だけにかかわるのではない。それは近代の日本語全体にかかわるものだった」。

 芥川賞を受賞した朝吹真理子『きことわ』(新潮社)を紹介する枕に、養老孟司の女性論を引いて読者を驚かす。

 幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういふ分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違つて、のつぺらぼうな人生を生きてゐる。養老孟司というふ解剖学者はさう語つて、わたしを驚かせた。その意見を伝へると、吉行淳之介といふ作家はほとんど襟を正すやうにして、その人はじつによく女を知つてゐると述べた。

 吉行淳之介が肯定するのだから、この主張は正しいのに違いない。
 相変わらず小林秀雄に対しては手厳しい。三浦雅士『青春の終焉』(講談社学術文庫)の書評で、小林に対して容赦しない。

 未熟であることを無学であることと早とちりしたのは、小林秀雄の最大の失敗であつた。彼はマルクスの意気軒昂たる態度を学問への軽蔑と勘違ひしたらしい。そしていささか同情して言へば、フランス象徴派に向ひ合ふときには、彼らの感覚と感受性の新鮮さに眩惑されて、学識のほうは見えにくかつたのかもしれない。まして無知で驕慢なヒステリー女としばらく同棲したくらゐで、女は私の学校であつたなどと誇る若者に、詩人たちを支へる社交界の女たちの洗練と教養など見当もつくはずはなかつた。一方パリの上流夫人たちおよびマルクスの前後左右には19世紀ヨーロッパの繁栄のもたらした知識人の群れがうようよしてゐたし、かはいさうに小林は本物の学者をつひぞ見たことがなかつた。このことは戦後、彼が折口信夫に会ひに行つて本居宣長について質問しても、何を答へられてゐるのかわからなかつたことで察しがつく。

 まあ、私もアンチ小林秀雄のつもりでいるから丸谷の小林批判は概ね肯んずるものではあるが、少々言葉がきついのではないかと僅かだが小林に同情する。
 そうか、丸谷才一が亡くなってもうこの魅力的なエッセイが読めないのか。


別れの挨拶

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