丸谷才一『夜中の乾杯』(文春文庫)を読む。丸谷が文藝春秋の雑誌『Emma』に昭和60年の創刊号から61年に連載したもの。やはり最初は丸谷と言えどおぼつかなかった。途中から丸谷節が戻り面白くなる。
「ヒゲを論ず」から、
淡谷のり子といふ大姉御は、若いころ、新しい恋人が出来ると、かならず鼻下にヒゲを立てさせたといふ。ウーム、わかるやうな気がしますね、そのクチヒゲのエロチックな効用。わからない人は大いに想像を逞しうして、やがて、つひに、とうとう、ハハーンと思ひ当つて下さい。
「性的時代」は五味文彦の『院政期社会の研究』を引く。院政期というのは、白河、鳥羽、後白河の3上皇による院政が行なわれていた1086年から1192年まで。保元の乱、平治の乱、平氏の栄華、平氏の滅亡などが主な事件だった。この頃はひどく風儀の乱れた時代だった。
白河上皇はその養女璋子(たまこ)と関係してゐながら、彼女を自分の孫である鳥羽天皇の后にし、しかもその後も関係を続けた上、彼女に子供(後の崇徳天皇)を産ませ、表向きは鳥羽天皇の皇子とした。どうやら璋子さんは、白河上皇および鳥羽天皇の双方と同時に関係しても平気だつたらしい。これが保元の乱の遠因と見ることもできるから、つまり当時の政治は性的退廃ないし大らかさと深く結びついてゐたのである。
白河上皇!!! と叱りたい。また院政期は男色も盛んだったという。左大臣藤原頼長は7人の貴公子と男色関係を持っていた。それは政治的な勢力拡張のためだった。さらに平重盛も後白河院と関係があった。丸谷は親子どんぶりだったと書く。また頼長は日記で、源為義の子で木曾義仲の父に当る義賢をベッドに引き入れて、なかなか味が良かったと書いているという。
「入社試験」の章で、
自分がしたことのない体験に興味がある。(……)わたしがしたことのない体験の代表は、見合と入社試験である。
もちろんこのほかにもいろいろあつて、たとへば強姦なんかもしたことがない。結婚サギなんて体験もない。狩りの体験も、飛行機を運転した体験もない。いや、自動車もないね。実を言ふと、今の日本人には珍しく、カラオケで歌つたこともない。ゴルフもゲート・ボールもしたことがない。ループ・タイといふものを結んだこともないし、女装したこともない。カレー・ライスを指で食べたこともないし、ウドンをオカズにしてご飯を食べたこともない。
私も考えた。見合はしたことがないが入社試験は何度も受けた。強姦も結婚サギも狩りも飛行機の運転もしたことがない。ゴルフも女装もない。カレーを指で食べたのはインドで経験した。ウドンでなくラーメンをオカズにご飯を食べたのは、ラーメンライスがそうだった。珍しい体験と言えば、テキヤを1年間やったこと、飯場に入ったこと、キャバレーのボーイや呼び込み、睡眠薬遊びやハシッシを吸ったこと。カツアゲが一番悪いことだったかなあ。無銭飲食もしたけど、一緒にいた友達が捕まって代金を払ってきた。
リクルートの入社試験も受けたけど、50年前だったから江副さんも面接官の一人だったのだろう。まだ小さな会社だった。飯場というのは土方の簡易宿舎のこと。そこでオイチョカブという博打を教わった。キャバレーではチンチロリンというサイコロを使う賭け事が流行っていたけどしなかった。
「女の背広」の章で、20世紀を代表する女を選んでいる。まずマリリン・モンローが頭に浮かぶ。でも丸谷は、モンローを「生身の女といふ感じぢやない。あれはやはりハリウッド製の妖精なので、この点、ここでは除くほうがいい」と言って、次にエリザベス女王を上げるが、「共和主義者であるわたしとしては、なるべく女王様ははづしてしまひたい」と言う.
エヴァ・ペロン? 要するに亭主の選挙運動をやつた女でせう。日本の代議士の細君をもつと派手にしたやうなものである。別に悪口を言ふつもりはないが、褒めるのもためらはれる。
ボーヴォワール? わたしは小説の下手な女流作家は好まない。
マリア・カラス? 盛りが短かつた。
そして丸谷が選んだのはココ・シャネルだった。
改めて丸谷才一は後世小説家というよりエッセイストとして記憶されるのではないかと思った。