宮下誠の「20世紀音楽ーークラシックの運命」はお買い得!

 宮下誠の「20世紀音楽ーークラシックの運命」(光文社新書)はすばらしい。現代音楽を実にていねいに紹介している。以前、同じ著者の「20世紀絵画」(光文社新書)を読んで気に入ったので、本書も期待して読んだが、期待以上の出来だった。ヴァークナーやブルックナーブラームスから始まって最近の作曲家まで100人近くを紹介している。初めて聞いた名前もたくさんある。ところが宮下誠はそれらの作曲家たちの膨大な作品をていねいに聴いて、個々の曲について具体的なコメントを書いている。

ヴェーベルンの)オーケストラのための五つの小品(1913年)
 5曲で5分弱という、極小形式の極地とも呼ぶべき作品。第4曲はわずか6小節。それぞれの曲はきわめて密度が高く、聴き手にも極度の緊張を強いる。聴くという行為そのものを問題化していると考えることもできるだろう。すなわち旋律を聴くこと、そこに何らかの意味(いいたいこと)を聴き取ることから、音そのものを聴くこと、それ以上の聴き方をしないことへの転換を示唆しているのである。そしてそのような態度で臨むとき、その音楽の繊細さは驚くほどである。


(アイヴズの)交響曲第2番(1900-01年)
 とにかくひたすら多くの音楽が引用される。どの音楽がアイヴズ本来の音楽で、どこまでが引用なのか、といった議論は、この作品においてはほとんど意味をなさない。賛美歌や民謡、軍歌、ヨーロッパのシリアスな音楽がいわばアマルガムとして提示される。そこにはソナタ形式といった音楽形式への意識はなく、そのことが独特の時間性をこの作品に付与している。引用された音楽はみな親しみやすいもので聴いていて楽しめるが、それらを繋いでゆくアイヴズの「無為の作為」とでもいうほかない過激な天真爛漫さは非常に新鮮である。


ショスタコーヴィチの)交響曲第15番イ長調(1971年)
 古典的な4楽章制で書かれた最後の交響曲。子供時代を回想したような、それでいていかにも気味の悪い第1楽章をはじめ、随所に過去の音楽作品が「引用」されており、いやでもその意味を推理したくなるが、そのような試みはおそらく最初から挫折するほかないように作られている。終楽章末尾の音楽は澄み切っていながら邪悪でもあるとてつもないもので、これを聴くためだけにでも全曲を聴き通してもらいたい。


ヒナステラの)エスタンシア(牧場)(1941年)
 ヒナステラ出世作であると同時に代表作でもある。フィナーレである「マランボ」は、8分の6拍子の典型的な民俗舞踊をクラシックの語法で再現したものだが、次第に高揚しながら最後にはリズムの饗宴となる。その高揚感は格別であり、20世紀が生み出した最良の舞踏音楽の一つであるといってよいだろう。


 彼(シュトックハウゼン)のCDは彼自身が創設したレーベルから出ているものも多く、それらはとてつもなく高価であり、また、その購入にはシュトックハウゼンの「許諾」が必要となると、これはもういかんともしがたい。

 宮下誠は20世紀西洋美術史が専門のはずなのに、現代音楽に関するこの該博な知識は何か。本書は新書でありながら、索引を含めて450ページ近いという充実ぶりだ。これでわずかに1,050円、これがお買い得でなくてなんだろう。あのカッパブックス光文社新書になって、この出版社を見直した。いずれ偉い一人の編集者がいるのに違いない。
 20世紀音楽といえば矢野暢「20世紀の音楽ーー意味空間の政治学」(音楽之友社)を思い出す。この人も政治学者が本職だったが、セクハラで逮捕され京大教授の職を失ったのだった。