故郷での山本弘の評価

 飯田市山本弘の故郷とも言える。ではその飯田市での評価はどうか。まず、若い頃からの山本の友人で、飯田市リアリズム美術家集団(略称リア美)の仲間だった菅沼立男さんの評。2005年6月12日の信州日報から。

 画家山本弘(1930〜1981年、51歳没)は豊丘村に生まれ、18歳で画家を志し、公募展としては日本アンデパンダン展、平和美術展を舞台として、他は個人展、グループ展を精力的に行い活躍した。晩年は400点を超える作品を残して縊死。
 アカデミズムの成果の価値そのものを疑いながら、自らの主軸はアカデミズムから離れることができなかった画家で、若くして生活の荒廃の中に身を置き、詩を作り、文学を語り、酒仙人を自認した風狂無頼の画家でもある。最近はmmpoloの骨折りで東京の銀座周辺の画廊で遺作展が数回開催され、反響を呼んでいる。

 親しい仲間とは言え批判的だ。ついでリア美とは対立していた県展系の南信美術のリーダー今村泰三の評価。「山本弘遺作画集」から。

 古い話だが某氏の個展の飾付を頼まれ2、3人の人手がいるので山本弘に頼んでおいたことがあったが、其の日になって「今飲屋で借金をしてしまって困っている」と話を掛けてよこし、払はないと此の店を出られないから頼むと云う、仕方がないので千円以上出してやると、それきり手伝いに来ない。後日叱りつけると、大臣でも詐欺をする世の中だと云い、平然たるものであった。
 ある日「おとうま!おかあま!」と、上のヘルスセンターから五平餅を買い、がなりたててきた、酒の囮と分っているので有り合わせの肴をそえて出すと笑顔でコップに3杯程たいらげているうちに、妹の出ている店で絵が売れて今日は金があるから奢るで是非町へ行ってくれと無理やり引っぱり出される。おでん屋の寿で少し奢って今度は焼酎道場へ行こうと云う、此処は焼鳥屋、酎を少し飲んで居る間に焼鳥を相当折に包んで今度の払は親父の番だと云ってさっさと出て行ってしまう、仕方がないので払わされる、弘はこの調子でなかなかぬけめの無い人物であった。
 自殺未遂の様な騒ぎを演じてよく人の気を引く様なことをしたが、相当の寂しがりやだったのだろう。
 ある日、横田金一郎君が弘に金を出してあるで絵の話に一緒に行ってくれと誘われて上郷の住居を尋ねたことがあった。下屋の窓のない穴の様な陰気な、画の道具や画用紙の散ばった一室に娘が一人寝転んで居て、弘が居ないので聞くと、上の通りの飲屋へ行っていると云う、其の店で会ったがべろべろに酔って、其れに言語障害もあるので云うことが全く分らない。あきらめて帰る道々、あの間では窒息しそうでとても飲まずにはいられまいと思った。
 それから数ヶ月後彼は此の世を去ったのである。
 乱雑に描きためたぼう大なものの中にはひとの心に迫る閃めきを蔵したものが相当にある。

 このおっさんの肩書きは(先輩・画家)とある。山本弘が画家なら、今村泰三は画家ではない。今村泰三が画家なら山本弘は画家ではない。今村の絵は田舎画家に毛も生えてない程度だった。
 菅沼さんは飯田市議を何期かやり、飯田市美術博物館の評議員でもある。その友人すらも山本を評価していない。飯田市美術博物館が山本弘の作品を50点以上収蔵しながらきちんとした個展を企画しないのはこのような理由があった。
 行政から派遣されていた副館長が私に言った。「美術館は市民の税金で運営されている、山本さんの個展に税金を使ったら市民が納得しないだろう。なんであんなアル中の酔っぱらいのために税金を使わなければならないのか。」
 今村泰三の書いていることがもし本当なら、山本は相手を見てそれをやったのだ。私は14年間師事したが嫌な記憶は一度もなかった。尊敬すべき偉大な師だった。山本の弟子だったことが今も私の誇りだ。