岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』を読む

 岡田暁生片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)を読む。裏表紙の惹句を引く。

西洋音楽のオモテとウラがよくわかる「最強の入門書」!

バッハは戦闘的なキリスト教伝道者。ベートーヴェンは西側民主主義のインフルエンサー。ロマン派は資本主義のイデオロギー装置。ワーグナーはアンチ・グローバリスト。ショスタコーヴィチは軍事オタク。古楽から、古典派、ロマン派、国民学派、そして現代音楽までを総ざらいし、名曲に秘められた「危険は思想」を語り尽くす。

 

 岡田は1960年、片山は1963年生まれの音楽評論家。二人に共通するのはどちらも吉田秀和賞という音楽評論に関する最高の賞を受賞していることだ。優れた音楽評論を書いていて、最も信頼できる音楽評論家だということ。その二人がクラシック音楽について対談している。面白くないわけがない。ところどころで洩らされる岡田の本音も興味深い。

 バッハについて、

岡田暁生  最後に少し変わった観点からバッハを語りたいと思います。たとえばアンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』における、バッハの曲の使われ方なんかはどうでしょう?

片山杜秀  コラール・プレリュード《われ汝に呼ばわる、イエス・キリストよ》へ短調(BWV639)。確かにたいへん印象的な使われ方ですね。

岡田  川べりで、水草がそよいでいるシーンで、バッハの曲が流れている。地球の終わり、あるいは人類が死滅したあとの世界のイメージですね。人間がもういないのに流れている音楽。こんな場面で流せる音楽は、確かにバッハ以外には絶対ありえない。

片山  そうですね。『惑星ソラリス』は、ポーランドスタニスワフ・レムの小説が原作ですが、タルコフスキーは「惑星ソラリスにある意思を持った海」という点を哲学的に強調していました。ソラリスでは、全体で一つのある秩序が完成していて、個物というものが「アウフヘーベン」された世界、すなわち矛盾するいくつかの要素が統一されて「止揚」しているような世界を描いています。そこに唯一、流れる音楽は、あのバッハなんですね。

 

 ロマン派を語る際に、避けて通れないテーマが「愛」だと言う。

岡田  音楽史における失恋テーマは、シューベルトから始まるといっていいでしょう。「失恋する不幸なボク」に自分で酔っちゃうナルシズムが、ロマン派音楽の重要なネタになり始める。ちなみに僕はシューベルトの失恋ものは苦手です。その代表格が3大歌曲集。弱々しさをウリにするナルシスティックな男、なんていうと怒られるかな(笑)。

 

片山  (……)ショパンは「曲種」の開拓も見事でした。あの大量のピアノ小品の演奏時間は、だいたい3分とか、せいぜい5分、交響曲や協奏曲を延々と1時間も聴かされたら、疲れ果てて何が何だかわからなくなってしまうブルジョワ家庭の子女でも、3分なら大丈夫です。

 

 バルトークについて、岡田は表現主義的といわれる第1次世界大戦前後の作品が一番好きだという。

岡田  オペラ《青ひげ公の城》はリヒャルト・シュトラウスの《サロメ》の後追いだし、そしてストラヴィンスキーの後追いが今おっしゃった《かかし王子》と《中国の不思議な役人》なわけだけど、この時期が実は一番強烈なインパクトがある。それもほとんど倒錯ヘンタイ趣味と言いたくなるような性表現の点で。様式的にはシュトラウスストラヴィンスキーやらを後追いしているんだけど、あの倒錯趣味だけは誰にも追随を許さない。ここをごまかしてはいけない(笑)。とはいえ《中国の不思議な役人》は無言劇(パントマイム)ですけれども、とても私はあのヘンタイ趣味なあらすじをここで要約なんかできません、良俗に反します(笑)。

 

 現代音楽を語って、

岡田  ブーレーズははきり言って前衛作曲家じゃなくて文化政治家ですね。そもそも彼の作品ってほとんどシュトックハウゼンが出したコンセプトの後追いだし、シュトックハウゼンのぶっとんだ狂気もない。アカデミックな前衛なんだもん。電子楽器ももともと先鞭をつけたのはシュトックハウゼン

 

岡田  (……)ちなみに先日、きわめて有名なある国際ピアノ・コンクールの中継をBSで観たんですが、正直レベルがかなり落ちていると思わざるをえなかった。こんなことじゃ業界の自作自演イベントとしてしか成立いかくなっています。

 ここで言われているのは先のショパン・コンクールだろう。

 

 最後に岡田は、クラシック界において、21世紀に入って人を震撼せしめるような達成を見せてくれた唯一の音楽家が、指揮者テオドール・クルレンツィスだと言う。それではクルレンツィスを聴き直そう。