『マーラーを語る』が面白かった

 ヴォルフガング・シャウフラー 編『マーラーを語る』(音楽之友社)が期待以上に面白かった。副題が「名指揮者29人へのインタビュー」で、この副題が本書を十全に語っている。指揮者はアルファベット順に並んでいる。アバドバレンボイムブーレーズハイティンクヤンソンスマゼール、メータ、ラトル、サロネン等々、まさに錚々たるメンバーだ。一人約10ページが充てられている。きわめて贅沢な企画だ。マーラーに対して様々な意見が述べられ、正反対の評価も散見する。
 クラウディオ・アバド

――20世紀の破滅的な大惨事(カタストロフ)がなければ、マーラーが真に理解されることはなかった。バーンスタインはそう言いましたが、納得ですか?
アバド  そう思います。マーラーは感性が鋭く、何かが起こると感じていました。でもアルバン・ベルクもそうでしょう。彼の《オーケストラのための3つの小品》、最後の楽章はまさしくカタストロフ。マーラーの6番よりも劇的です。

 ピエール・ブーレーズ

――ブルックナーなくしてマーラーはあったでしょうか?
ブーレーズ  あったかもしれませんが、どうでしょう。でもブルックナーの8番、9番など、後期の交響曲には、間違いなく影響力があります。
――密集エネルギーという点で?
ブーレーズ  そうです。ただしマーラースケルツォなど、A-B-A-B-A、A-B-Aという単純なブルックナーよりも遥かに込み入っています。
――ショスタコーヴィチ然り?
ブーレーズ  その名前は、私には禁句です。あの音楽、あのつまらない音楽がなぜ受けるのか、皆目見当がつかない。マンネリ・パターンの寄せ集めで、イライラします。

 リッカルド・シャイー

――最初から極端だったマーラー演奏ですが、現在の適切なアプローチは?
シャイー  マーラーのような天才を語ると、きりがないですね。マーラー指揮者のうち、バーンスタインは極端に走りましたが、それは彼流のマーラー解釈の精神といつも釣り合っていました。メンゲルベルクバーンスタインを隔てる半世紀を考えれば、そんな極端さも頷けます。
 マーラーの音楽には、羽目を外したり過激に走らせたりする衝動的な性質があります。だから私は、マーラー演奏で声高に叫ばないことにしています。将来は、そちら側の極端にいくかもしれません。とはいえバーンスタインは、古今最高のマーラー演奏家でしょう。彼とウィーン・フィルの9番の演奏を今でも覚えています。会場はミラノ・スカラ座。フィナーレで、情感が表現不可能な領域に達していました。スカラ座の音響は幾分ドライですが、バーンスタインは勇気を奮って、最後の2、3ページでどんどん引き延ばし、極限まで遅くしました。そのパワーと緊張感は鮮烈でした。

 クリストフ・エッシェンバッハ

――マーラーがあと30年生きていたら、どの方向に進んだでしょう? あくまで推論ということで。
エッシェンバッハ  ベルクの方向だと思います。1936年以降、ベルクがどこに進んだか、誰も知らない。しかしベルクの《オーケストラのための3つの小品》とマーラーの6番は、同一人物の作と思うほどです。

 ケント・ナガノ

――《嘆きの歌》は、劇場用作品として上演できるマーラー唯一の作品だと言う人もいます。ナガノさんは3幕版の世界初演をされました[正確には世界初録音]。そのプロジェクトに関して、また全曲を見てどう思いましたか?
ナガノ  マーラー以外にも、初稿の段階から先進的かつ独創的で、創造力豊かな爆発的表現を見ることは少なくありません。ブルックナーの初稿にも、荒々しく発明的なアイデアが見られますが、後日、助言者や友人の批判で和らいでしまいます。直しすぎて興奮の芽まで摘んでしまう危険性もある。アメリカではこれを「委員会のお仕事」と呼びます(笑い)。役員や委員が顔をつき合わせて、元のアイデアが消えてしまうまで、知恵を出し続ける。その結果、とんでもない作品になることもある。

 「委員会のお仕事」憶えておこう。
 スペインの指揮者、ホセプ・ポンス。

――指揮者から見て、マーラーの作品の本質は?
ポンス  微妙な問題ですね。マーラーへの鍵は、歌曲にあると思っています。まず《子供の不思議な角笛》、そして《亡き子をしのぶ歌》、さらには《リュッケルト歌曲集》。これらはライン川ライン川の魚を語ります。鍵はそこにあります。[リュッケルトからの]〈美しいトランペットが鳴り響くところ〉には、マーラーの全ての面――分かりやすい旋律線、色彩的なスコア、対比の効いたテンポと主題、そしてひらめきが3分間に含まれています。これも交響曲への鍵、マーラーの本質だと思います。ブラームスと似たところが。ブラームスの本質も歌曲にあります。マーラーも歌曲を味わい、理解するのが基本でしょう。でも大変難しい! 複雑ではないのに、すごく手間がかかるのです。

 エサ=ペッカ・サロネン

――マーラーは6番の最終楽章で、20世紀の破滅的な大惨事(カタストロフ)を予知しているという指揮者がいます。第一次大戦前夜、マーラーはある意味予言者だった?
サロネン  予言ではなく、マーラー個人の葛藤でしょう。マーラーはいつでもどこでも疎外感を持ち、いわば根無し草でした。(中略)彼のカタストロフは、世界ではなく、あくまで自分自身のものです。
 予知に関して――少し話題が逸れますが、ストリンドベリの最後の戯曲”The Great Highway”(1909)には、広島に投下された最初の原爆が、文字通り正確に予言されています。戯曲に登場するさすらいの旅人は目の見えない日本人に出会う。その人は太陽よりもまぶしい光を見て、視力を失ったとのこと。旅人は「どちらからおいでに?」、盲人は「ヒロシマから」。ストリンドベリの最後の戯曲、まさしく千里眼。でもマーラーの場合は個人的なものだと思います。

 実に充実した読書だった。早速マーラーのCD、ブーレーズ指揮の9番とクレンペラー指揮の『大地の歌』を買った。後者を聴きながらこれを書いている。


マーラーを語る: 名指揮者29人へのインタビュー

マーラーを語る: 名指揮者29人へのインタビュー