鈴木忠志『初心生涯』(白水社)を読む。副題が「私の履歴書」。日経に連載した「私の履歴書」に随筆を加えてまとめたもの。
鈴木忠志は最初の頃「早稲田小劇場」という劇団を率いて早稲田で公演をしていた。途中で富山県利賀村の合掌造りの民家を借り、そこに劇団ごと移転してSCOTと名付けて、そちらで公演することにした。
私は1975年、早稲田小劇場で『夜と時計』を見た。その後すぐに利賀村へ移転して、そんなに遠いところでは見に行かれないと思ったのだった。
本書を読めば、それがきわめて大変なことだったことが分かる。交通の便が悪く、劇団員たちですら雑魚寝や夕飯も食パン2枚にジャムだったりする。劇団は毎年赤字が続いた。それを海外公演の出演料で穴埋めしていた。
しかし、次第に支援者が増え、富山県知事や西武百貨店の堤清二会長などからも基金援助があり、財団国際舞台芸術研究所が発足した。利賀フェスティバルと名付けた国際演劇祭が開かれるまでになった。
また水戸市芸術館の演劇部門の芸術監督を任された。さらに鈴木の出身地である静岡県からも声がかかり、静岡県舞台芸術センターという財団を設立し、鈴木が芸術総監督に就任した。
鈴木の随筆に「蜷川幸雄とのこと」という一文がある。日生劇場で上演された『王女メディア』を演出した蜷川についての批評だ。
実際のところ、大劇場空間をそれなりに使いこなしうる演出家は、私のみるところ、蜷川幸雄と寺山修司ぐらいしかいないのである。(……)ただ蜷川幸雄には、貧しい内面より華やかな外面のほうがいいというような、相対的な評価で舞台そのものを支持させてしまうようなところがあって、残念だといえばいえる。華やかな外面が内面の豊かさというようなことと背反しないような舞台づくりの方法をさがして、もう少し苦しんでもいいのではないかというような気もするのである。
自伝とは言え、成功者の自己賛美の一面が気になった。早稲田小劇場でともに活動していた劇作家の別役実が去った理由がほとんど書かれていない。何もなかったとは信じられないのだ。
