長谷川康夫『つかこうへい正伝』が文庫化される

 長谷川康夫『つかこうへい正伝』が新潮文庫化される。それで、5年前に書いた紹介を再掲し、あわせて、さすらい日乗さんによる長谷川康夫『つかこうへい正伝1968−1982』評も一緒に再掲する。
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 まず私が1995年12月22日にアップした『つかこうへい正伝1968−1982』、
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 長谷川康夫『つかこうへい正伝1968−1982』(新潮社)を読む。550ページを超える分厚い伝記だ。ただ「1968−1982」となっているが、つかは1948年生まれで亡くなったのは2010年だった。長谷川はつかこうへいの芝居の出演者であり制作スタッフだった。つかより5歳若く、早稲田大学に入学して劇団「暫」に入団してつかと出会った。正伝と謳っているものの、本書は長谷川がつかと密接な交流をもった時代のつかの伝記なのだ。
 つかは慶応義塾大学文学部に入学して同人誌「三田詩人」に参加する。そこで堀田善衛の娘百合子と知り合う。つかは百合子に夢中になったようだが、彼女はつかのことをどう思っていたかとの長谷川の問いに「ボーイフレンドの一人かな」と答えている。さらに、百合子はつかについて、「ほら、彼って利にさといでしょう」と言ってのける。つかの芝居には、『郵便屋さんちょっと』に「ゆりの看護婦さん」が、『広島に原爆を落とす日』では韓国籍の主人公の許嫁が「百合子」という名前だという。
 つかは別役実の芝居に学び、『戦争で死ねなかったお父さんのために』で成功を収めていく。ついで『郵便屋さんちょっと』や『初級革命講座』、『熱海殺人事件』を発表し、それらを繰り返し改訂していく。つかの劇作法は「口立て」というものだった。完全な台本があるわけではなく、稽古場でつかが台詞を作り役者がそれを暗記すると言われている。だが長谷川は、つかがやりたいことを役者がフォローしていくのだという。つまり、つかの芝居は実は役者と共同作業で作られていったのだった。それは芝居だけに限らない。つかの書いたとされる小説でもエッセイでも、最初につかが書いたものをスタッフ、長谷川たちが書き直したり取材したりして完成させていったものだった。
 それらの事実を明かしているのに、暴露しているという印象はない。それらの共同作業を長谷川は喜んで行っていたのだろう。台本で読んだだけの『蒲田行進曲』の銀ちゃんとヤスの関係に似ている。
 本書を読んでいて、5年前に亡くなったつかこうへいに対する長谷川の複雑な心情が忖度された。それはきわめて深い愛情でもあるだろう。「正伝」となっているが、伝記というよりもむしろドキュメンタリーと言ったほうが近いだろう。執筆に数年間かかったと言うが、リアルタイムで書き継いでいるような印象だ。
 「あとがき」の末尾にこうあった。

 さて、これを読んで、つかさんはどう思うだろう。いや、つかさんが生きていれば、こんなものを僕が書くことも、それが世に出ることもなかったわけだから、考えること自体が無意味かもしれない。それでもやはり、懐かしい怒鳴り声は聞こえてきてしまう。
「また、おまえが長々と、ペラペラペラペラ、知ったような口、叩くんじゃねぇ!」
 そこには、沈黙したまま目を伏せ、稽古場に立つ僕がいる。
「でもつかさん、あの頃のことが、何も記録として残っていないのは寂しいじゃないですか」
 今なら、そう反論できるかもしれない。でもそれも一喝されるだろう。
「バカ! 残してどうすんだ? 一瞬一瞬で消えてしまうからいいんだろうが。芝居と同じだよ!」
 僕はまた沈黙するしかない。するとつかさんはにやりと笑い、こう続けるのだ。
「しかしまさかこの俺がよ、長谷川の青春記のダシに使われるとは思わなかったよ。なぁ岩間」

 これを読んで不意に涙がこぼれそうになった。長谷川のつかへの心情が現れている。とても良い本を読んだ。
 さて、私は70年代にアングラ芝居をそこそこ見ていた。68/71(現在の黒テント)、劇団走狗、劇団摩呵摩呵、黙示体(花輪あやが懐かしい)、木冬社、内田栄一の東京ザットマン(角替和枝が出ていた)、それから名前も忘れた小劇団の数々。しかしつかこうへい事務所の芝居だけは一度も見たことがなくて、一度『鎌田行進曲』の台本を読んだことがあるだけ。赤テント(状況劇場)は1、2回、天井桟敷も2、3回、早稲田小劇場も第七病棟も1回見ただけだった。東京キッドブラザーズはちょっと小馬鹿にして見なかった。つかこうへいの芝居は何か思想性がない印象があって見なかったのだろう。その大衆性も好みではなかったと思う。とくに昔の私は多少突っ張っていて、人気のあるもの、ベストセラー、ヒットした映画などは一顧だにしなかったのだ。本書を読んでつかこうへいの何かを見てみたい気がする。深作欣二監督の『蒲田行進曲』のDVDでも借りて見てみよう。
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 次に1998年2月9日にアップした「さすらい日乗さんによる長谷川康夫『つかこうへい正伝1968−1982』評」、
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 さすらい日乗(指田文夫)さんが、長谷川康夫『つかこうへい正伝1968−1982』(新潮社)について、大変興味深い書評を寄せてくれた。それを掲載する。

長谷川康夫の『つかこうへい正伝』を読んだ。
非常に面白いが、彼の作劇術は、実は小津安二郎が、野田高梧と書いた戦後の黄金期の小津作品の作り方によく似ているのではないかと思った。
つかの作劇術は、いうまでもなく「口立て芝居」だが、本当はエチュード・システムの変形というべきものである。
エチュードというのは、スタニスラフスキー・システムの一つで、劇を作るとき、戯曲を細かい部分に分ける。
そしてその場面に類似した、個々の役者が実際に遭遇した体験、あるいは想像でもよいから戯曲の場面に近い設定を考えさせて、そこから演技をさせる。
その展開は、戯曲の通りなら理想だが、必ずしもそうでなくとも良く、ともかくその状況の感情の変化等を体験させる。
そうやって役者に劇の設定や展開を体験させ、そこから戯曲に入って行くものである。稽古中に、私は役者たちがよく言っていたのを憶えている。
エチュードは楽しいのだが、これが戯曲になると詰まらなくなる」
 つかこうへいは、これを早稲田小劇場の鈴木忠志の演出を見て、劇作法そのものに転換させたのだと思う。
この本に書かれているが、つかこうへいの慶応大学時代の仮面舞台の演出は、このようものではなく普通のものだったようだ。
それを、つかは鈴木忠志の演出法を見、さらに早稲田の学内劇団の一つ「暫」に参加することで、「口立て」に変わってゆく。
 鈴木が、既成の戯曲のつぎはぎ・「コラージュ」で演出するようになった原因は二つある。
一つは、座付き作家の別役実が、早稲田小劇場を離れ、彼らに劇作家がいなくなったためである。
もう一つは、別役との決別を、「役者の中に、別役の台詞を生理的に受け付けない、言えない者がいるため」であったと鈴木は言っている。
これは台詞が、本来役者の体を通過しないと成立しないことを意味している。
これを作劇にまで応用したのが、つかこうへいであると私は思う。
彼は、当初ほとんど2,3の台詞しかない彼自身のモチーフを役者たちに言わせ、それを展開し発展させていくやり方で劇へと増幅させていった。
この作劇法の中心は、個々の役者の体に合うだけの台詞のみが発せられることである。それは次第に役者の体の内部にある感情や心情を掘り下げて発掘するものになっていく。
つまり、ここにきて、作劇は、つかこうへいと役者との共同作業になる。
長谷川は、何度も書いているが、この過程で常につかは、役者を罵倒し、貶し、役者はそれをじっと耐えていくだけだったとしている。その結果、時には配役がつかの一存で急きょ交代されることもあった。
だが、それでも平田満、長谷川、岩間多佳子、向島三四郎らは、無条件でつかの指示に従った。
それは、つかこうへいの能力の高さを誰もが認めていたからだが、同時にこの「口立て芝居が、役者たちの内部を自ら発見する喜びがあったからだと思う。また、これは学生劇団の延長線上にあった劇団暫だから可能だったことでもある。こんな時間のかかるやり方に付き合えたのは、彼らが学生で、時間が十分にあり、「暇」だったからである。まさに大学生時代というのは、実に贅沢な時代であったわけだが、今の大学生さんたちはお勉強でそれどころではないのだろう。本当に大変だなと思う。
                 
 『つかこうへい正伝』を読んで、もう一つ気が付いたのは、長谷川康夫が否定的に書いている、彼の生活態度、金銭感覚である。長谷川は、ほとんど他人の懐を当てにして生きていたような、つかの金銭感覚をあきれたように記述している。
だが、学生をはじめ、その家族の懐すら当てにして生きていくという男は、1970年代まで大学に結構いたものである。それは、つかこうへいが嫌悪し、敵のように見なしていた左翼系の学生運動の指導者たちが皆そうだったのである。当時、いろんな党派の連中がいたが、その指導者格になると、下部の学生からのカンパという名の「恐喝」のごとき寄金によって生きていたものである。彼らは、自分を職業的革命家、「職革」と称し(私は食客だと思っていたが)、「革命のために命を掛けている俺に、お前たちは寄金するのは当然である」と思っていた。
つかこうへいは、
「俺はいずれ偉い劇作家、演出家になるのだから、俺を信じてついて来い」と思っていて、多分、平田満などは信じていたと思う。
いずれにしても、自分に対して信じられることは、一つの素晴らしい能力であることは言うまでもない。

 さすらい日乗 http://sasurai.biz/

 

 

つかこうへい正伝: 1968-1982 (新潮文庫 は 75-1)

つかこうへい正伝: 1968-1982 (新潮文庫 は 75-1)