『つかこうへい正伝1968−1982』を読む

 長谷川康夫『つかこうへい正伝1968−1982』(新潮社)を読む。550ページを超える分厚い伝記だ。ただ「1968−1982」となっているが、つかは1948年生まれで亡くなったのは2010年だった。長谷川はつかこうへいの芝居の出演者であり制作スタッフだった。つかより5歳若く、早稲田大学に入学して劇団「暫」に入団してつかと出会った。正伝と謳っているものの、本書は長谷川がつかと密接な交流をもった時代のつかの伝記なのだ。
 つかは慶応義塾大学文学部に入学して同人誌「三田詩人」に参加する。そこで堀田善衛の娘百合子と知り合う。つかは百合子に夢中になったようだが、彼女はつかのことをどう思っていたかとの長谷川の問いに「ボーイフレンドの一人かな」と答えている。さらに、百合子はつかについて、「ほら、彼って利にさといでしょう」と言ってのける。つかの芝居には、『郵便屋さんちょっと』に「ゆりの看護婦さん」が、『広島に原爆を落とす日』では韓国籍の主人公の許嫁が「百合子」という名前だという。
 つかは別役実の芝居に学び、『戦争で死ねなかったお父さんのために』で成功を収めていく。ついで『郵便屋さんちょっと』や『初級革命講座』、『熱海殺人事件』を発表し、それらを繰り返し改訂していく。つかの劇作法は「口立て」というものだった。完全な台本があるわけではなく、稽古場でつかが台詞を作り役者がそれを暗記すると言われている。だが長谷川は、つかがやりたいことを役者がフォローしていくのだという。つまり、つかの芝居は実は役者と共同作業で作られていったのだった。それは芝居だけに限らない。つかの書いたとされる小説でもエッセイでも、最初につかが書いたものをスタッフ、長谷川たちが書き直したり取材したりして完成させていったものだった。
 それらの事実を明かしているのに、暴露しているという印象はない。それらの共同作業を長谷川は喜んで行っていたのだろう。台本で読んだだけの『蒲田行進曲』の銀ちゃんとヤスの関係に似ている。
 本書を読んでいて、5年前に亡くなったつかこうへいに対する長谷川の複雑な心情が忖度された。それはきわめて深い愛情でもあるだろう。「正伝」となっているが、伝記というよりもむしろドキュメンタリーと言ったほうが近いだろう。執筆に数年間かかったと言うが、リアルタイムで書き継いでいるような印象だ。
 「あとがき」の末尾にこうあった。

 さて、これを読んで、つかさんはどう思うだろう。いや、つかさんが生きていれば、こんなものを僕が書くことも、それが世に出ることもなかったわけだから、考えること自体が無意味かもしれない。それでもやはり、懐かしい怒鳴り声は聞こえてきてしまう。
「また、おまえが長々と、ペラペラペラペラ、知ったような口、叩くんじゃねぇ!」
 そこには、沈黙したまま目を伏せ、稽古場に立つ僕がいる。
「でもつかさん、あの頃のことが、何も記録として残っていないのは寂しいじゃないですか」
 今なら、そう反論できるかもしれない。でもそれも一喝されるだろう。
「バカ! 残してどうすんだ? 一瞬一瞬で消えてしまうからいいんだろうが。芝居と同じだよ!」
 僕はまた沈黙するしかない。するとつかさんはにやりと笑い、こう続けるのだ。
「しかしまさかこの俺がよ、長谷川の青春記のダシに使われるとは思わなかったよ。なぁ岩間」

 これを読んで不意に涙がこぼれそうになった。長谷川のつかへの心情が現れている。とても良い本を読んだ。
 さて、私は70年代にアングラ芝居をそこそこ見ていた。68/71(現在の黒テント)、劇団走狗、劇団摩呵摩呵、黙示体(花輪あやが懐かしい)、木冬社、内田栄一の東京ザットマン(角替和枝が出ていた)、それから名前も忘れた小劇団の数々。しかしつかこうへい事務所の芝居だけは一度も見たことがなくて、一度『鎌田行進曲』の台本を読んだことがあるだけ。赤テント(状況劇場)は1、2回、天井桟敷も2、3回、早稲田小劇場も第七病棟も1回見ただけだった。東京キッドブラザーズはちょっと小馬鹿にして見なかった。つかこうへいの芝居は何か思想性がない印象があって見なかったのだろう。その大衆性も好みではなかったと思う。とくに昔の私は多少突っ張っていて、人気のあるもの、ベストセラー、ヒットした映画などは一顧だにしなかったのだ。本書を読んでつかこうへいの何かを見てみたい気がする。深作欣二監督の『蒲田行進曲』のDVDでも借りて見てみよう。

つかこうへい正伝 1968-1982

つかこうへい正伝 1968-1982