2冊のエッセイ集を読んだ。まず阿川弘之『鮨 そのほか』(新潮文庫)を読んだ。本書の単行本は2013年に出版され、今年文庫化された。単行本は阿川の生前最後の著書らしい。文庫本裏表紙の惹句を引く。
見渡す限り桜満開の美しい情景が続く霊園――。志賀直哉の末娘の死を描いた「花がたみ」。旅の帰路に会った見知らぬ男性との、一瞬の邂逅を描く「鮨」。夏目漱石・内田百間の衣鉢を継ぐ「贋々作『猫』」……。詩情と諧謔に満ちた短篇小説の名品や、馥郁たる日本語の粋を尽くした随筆類と共に、吉行淳之介・遠藤周作を偲ぶ座談会などを収録。70年近い著者の文筆生活を締め括る、最後の一冊。
しかし、3篇の「短篇小説の名品」はちょっと長めのエッセイと呼ぶ方が正確だろう。そして22編の短いエッセイが続いている。追悼文が3編ほど、阿部昭、宮脇俊三、高松宮妃、いずれも特に優れたものではない。師事した志賀直哉に関連するエッセイがいくつか。そして吉行淳之介と遠藤周作を偲ぶ座談会。出席者は「わが友 吉行淳之介」が、阿川のほかに遠藤周作、小島信夫、庄野潤三、三浦朱門。これが何だかせわしないガチャガチャした印象の代物で、あまり評価できない。遠藤周作を偲ぶそれは「対談 良友・悪友・狐狸庵先生」と題して、阿川が北杜夫と対談し、娘の阿川佐和子が司会をしている。吉行淳之介の対談はいつも面白かった。座談会に吉行が参加していたらもうちょっとましなものになっただろう。
阿川弘之はいままでほとんど読んだことがなかった。1冊だけ読んだのが師を描いた『志賀直哉』だった。あれはなかなか良かった。
ついで幸田文『猿のこしかけ』(講談社文芸文庫)を読んだ。阿川と幸田のエッセイを比べると大関と幕下だ。阿川が幕下なのだ。格が違っている。幸田の文章は的確でゆるみがない。
「春の犬を追う」では、幸田家で飼っていた牝犬が発情したときのエピソードが語られるがそれがすさまじい。当時は夜間犬は放し飼いにされていたので、塀の内側にいる牝犬めがけて盛りのついた牡犬がたくさん塀を乗り越えて来る。牝犬を内玄関に入れておくと、彼らは床下を掘りたたきをこわしてしまう。玄関わきの二畳へあげておいたら、夜なか台所のあげ板を押しあげ、境の障子の骨を噛みちぎって侵入し、さらに中じきりの襖へ穴を明けかけていた。そこで父親や弟と叩き出した。それも今後懲りるようにと追いかけてめったやたらに叩いてまわった。しかし、ある日弟が犬にやりこめられる。
このエッセイの方が名短編の匂いを持っている。「栗の頃」は女中に雇った18歳という娘の夜中の怪しい行状が描かれる。娘は年齢を偽っていた。
興味深いエピソードもいろいろ語られる。「三人のじいさん」では、一人目のじいさんに父露伴が伊豆七島を歩かせたことがあった。見聞記が葉書や長い手紙でどしどし送られてきた。
……どこの島だったか、波が荒く船著き場のいいのがなく、やっと脚のばね任せに舟から飛びあがったら著陸のとたんに、地震! と思った、それは地面いっぱいの蛇で、蛇も驚いて逃げ出したので、動くが地震として感じられた、という報告があったとき、私はもうこの世で会えないような気がして、じいさんが懐かしかった。
も一人は植木屋だった。
じいさんはいわゆる植木屋の悪事をたくさん知っている模様だった。たとえば松にしろ梅にしろ「眼をあずける枝」、つまりああいい枝ぶりだといういのちになる枝を枯らしてしまう法、裾をあげてしまう法――これは下枝を枯らすことである――、来年は虫がたくさん発生する法、ちょっと見にはよくてもすぐ芽の伸びる鋏使い、無理を承知で薦める移植、などという悪事の数々を知っているのだそうだ。
幸田文は名文家だが、名文家というのは単に文章が上手いだけではなく、世界に対する独特の姿勢も必要に違いないと思わされた。良い本だった。幸田のエッセイをもっと読みたい。

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