菅孝行『浅利慶太』(集英社新書)を読む。副題が「劇団四季を率いた男の栄光と修羅」。浅利慶太は劇団四季を主宰し、『キャッツ』などのミュージカルで圧倒的な成功を収めた。私は浅利慶太には特段の興味はなかったが、菅孝行の演劇に関する評論は見逃せないと思って手に取った。期待を倍する面白さだった。読み始めたらまさに途中巻を措く能わずだった。
浅利慶太は始めフランスの近代演劇のジロドゥやアヌイの芝居を主に取り上げて公演していた。日本の新劇には批判的だった。浅利の憧れた演出家で、ジロドゥの協力者であったルイ・ジュヴェの言葉を浅利が引いている。
ジュヴェは劇場が賑わなければ、芝居者は主演俳優から裏方のひとりまで生きていくことはできない、「したがって、当たりを取るためには、時に時代の流行に身を屈さねばならないこともある」と。この言葉が以後の浅利の芝居者としての人生を支えた。
浅利の大きな転機は石原慎太郎に勧められて東急の五島昇と会ったことだった。浅利は五島に大企業が演劇界支援をするために東急文化会館の利用を勧めたが、五島は日本生命の弘世現社長が新社屋を建設し、その中に劇場を建てることを計画していることを浅利と石原に告げ、その建設と運営に関与することを勧めた。
日生劇場が誕生し、浅利、石原が運営に関わった。日生劇場開場後に四季の公演数は飛躍的に激増する。浅利は日生劇場にブロードウェイのミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』を招致した。さらに越路吹雪のリサイタルが大当たりした。
四季がブロードウェイミュージカルで当たりを取り、浅利はミュージカル俳優の育成に力を注いだ。『コーラスライン』等の後、『キャッツ』で大成功する。『キャッツ』はロングランとなり、俳優がチケット販売のノルマから解放された。それまでどこの劇団も経済的にはみな苦労をしている。チケット販売のノルマもバカにできない問題だった。
しかし、四季のミュージカル路線が成功したあとも浅利は不満を述べている。「本来劇団四季は芝居の劇団ですから、現在のようにミュージカルだけが全国を回っているというのは、僕らにとって痛憤に耐えない」(1992年)。
大量の観客を獲得した劇団四季が、その観客たちによってストレートプレイ(歌唱を伴わない純粋な演劇作品)を忌避される結果になった。四季の観客は、メッセージには目もくれず、歌とダンスだけを喜んで消費した。
さらに菅孝行は、現在初台に建っている新国立劇場建設に対して、途中までほとんど浅利が推進していたのに、最後の段階でその企画から撤退したことの経緯も詳しく綴っている。
劇団四季はディズニー・ミュージカルの版権も取得した。『ライオンキング』や『美女と野獣』、『リトルマーメイド』などだ。
その結果、年間の公演数が2000回を超え、観客動員数が200万人を超える巨大なビジネスが出来上がった。すると、演目がそのビジネスモデルに逆規定されることになる。それは期せずして、〈親子連れ〉の観劇によってはじめて可能なマーケットの内部に位置したということを意味した。大人の成熟した感性を前提にして作られたオペラを、親子連れの観客は受け入れないだろう。
前人未到の大成功が浅利のもう一つの希望、優れた芝居の上演を疎外することになった。
私は若いころを中心にアングラ芝居を楽しんできた。黒テント、劇団走狗、その他小劇団の数々。一方、紅テントや天井桟敷、早稲田小劇場は数えるほどしか見ていない。その後、木冬社とこまつ座にはまったが、四季は『キャッツ』を一度見ただけだった。
昔見たゴダールの『パッション』だったかで、毛沢東は偉大だ、〇億人の人民を食べさせているというセリフがあったが、それに倣えば浅利慶太は偉大だ、1,000人の劇団員を食べさせていると言うべきかもしれない。
優れた浅利慶太論だった。読後感無量だった。
