石垣りん『詩の中の風景』を読む

 石垣りん『詩の中の風景』(中公文庫)を読む。荒川洋治毎日新聞の書評で本書を紹介していた(2024年3月30日)。荒川洋治の推薦する本は外れがないと個人的には思っている。それですぐ購入して読んだ。

 百姓をやり猟師もやる朝日新聞の名物記者近藤康太郎もそのエッセイで本書を引用していた(朝日新聞2024年5月11日)。

 

 今年、文庫化された「詩の中の風景」は、石垣自身が愛読してきた詩に短文を寄せたエッセイ集だ。村野四郎の「鹿」をとりあげている。村野の詩は、猟師の鉄砲にねらわれた鹿を描いたもので、わたしも好き、というより身につまされる。小さな額をねらわれ、悲しんでもおらず、あきらめたのでもなく、凛として立つ。そうしたけものたちの目を、猟師としてのわたしはいくども見てきた。身に罪障の覚えがある。

 ところが石垣の立ち位置は、人間の側にあるのではなかった。鹿とは自分のことだ、というのだ。「年をとって気が付いたら、思いがけない近さに鹿が立っていました」

 小さな額をねらわれ、死すべき命とは、ほかでもない、自分だ。

 「人生の夕日、残り少なくなった時間」、鹿のようにと呪文を唱えるのだという。「あきらめとも、覚悟とも違う、心の姿勢のようなものが欲しくて」

 

 生きてんだから、いずれ死ぬんだ。わたしも、あなたも。

 あたりまえなことに気づかされ、今日も泥田で汗まみれ。また殺傷するんだろう。あきらめとも、覚悟とも違う、凛とした心の姿勢は、せめて、ただして。

 

 石垣りんから引く。

 

鹿     村野四郎

 

 

鹿は 森のはずれの

夕日の中に じっと立っていた

彼は知っていた

小さな額が狙われているのを

けれども 彼に

どうすることが出来ただろう

彼は すんなり立って

村の方を見ていた

生きる時間が黄金のように光る

彼の棲家である

大きい森の夜を背景にして

 

 石垣のエッセイ、

 

(……)この詩とめぐり会ったのは30年ぐらい前のことです。そのとき鹿は遠くに見えていました。何者かに自分の額が狙われているのを承知で、すんなり立っている姿、細い四肢。森も夕日も、遙かな光景として目に映りました。

 以来、詩と私との距離は変わりませんでした。年をとって気が付いたら、思いがけない近さに鹿が立っていました。いのちの春も夏も終わっていたのでしょうか。

 詩や文章が、読んだときの年齢によって受け取り方も変ってくる、と言われますが、最初に読んだ日から歳月を経て、私は森のはずれに辿り着いたものとみえます。

 近寄って背にした森は前より大きく、深い夜を抱えこんでいました。人生の夕日、残り少なくなった時間。詩はそこまで表現していないのに、私は自分勝手に、死の射程に立つ一匹の獣を傍に感じ、煩瑣な日常からちょっと飛び退いて「鹿のように」と呪文を唱えます。あきらめとも、覚悟とも違う、心の姿勢のようなものが欲しくて。

 

 気が付いたら、私の近くにも一頭の鹿が立っていた。