森洋子『ブリューゲルの世界』を読む

 森洋子ブリューゲルの世界』(新潮社とんぼの本)を読む。今春大規模な展覧会があった「バベルの塔」や「雪中の狩人」の画家だ。とても良い本だ。
 森はお茶の水女子大で哲学を学んだのち、米プリンマーカレッジ美術史学科で修士号を取得、ベルギー政府給費留学生としてブリューゲルを研究とある。読んでいて、本当にブリューゲルの世界に入り込み実地に研究した実績をもとに書いていることがよく分かる。その作品理解は深く微細にもわたっている。しかも本書は新潮社の「とんぼの本」シリーズなので、カラー写真が豊富で言葉だけでなく図版を示してていねいに教えてくれる。
 ブリューゲルの伝記から交友関係、当時の風俗文化など幅広い情報が詰まっている。ブリューゲルのことを、権力に抵抗した画家で少数派の非カトリックの宗教団体に属していたという近年の解釈に対しても、交流関係や葬儀ミサ、墓碑の設置、作品分析などから真正のカトリック教徒であったことを証明してみせる。

 その素晴らしい作品分析の一端を「雪中の狩人」について抄録すると、

……前景は《牛群の帰り》と同じく対角線の構図ですが、猟師たちは領主の狩猟の手伝いの帰りだったのでしょう。自分たちの分はキツネ1匹です。農民たちは領主たちの狩猟地で自分たちのためにシカ、イノシシ、クマなどの大きな動物を射止めることは禁止されていたからです。驚くべきことにブリューゲルは猟師と一緒に描かれた13匹の猟犬を、1.猟師たちに獲物のありかを教える、足の速い犬、2.地中に逃げ込む獲物を臭いをかぎわけて追跡する犬、3.猟師が打ちとめた獲物を運ぶ犬など、3種に描き分けているのです。
 画面の中景を見ましょう。そこは、平坦なブラバント地方のパノラミックな農村風景で、農家や聖堂が点在し、つららの垂れた水車(前景右端)、凍った池、そこでの氷上の遊び(スケート、独楽回し、ホッケー、カーリング、橇滑りなど)が描かれています。よく見ると、一軒の農家の煙突から火が噴き出し、村人があわてて消火作業をするエピソードまで挿入され、とても日常的です。(中略)
《雪中の狩人)の前景に戻りましょう。はずれかけた居酒屋の看板には「鹿亭」と書かれています。(中略)よく間違えられるのは居酒屋前の情景で、農民が焚火をしながら体を暖めていると思われがちです。しかし彼らは「豚の毛焼き」をしているのです。《ベツヘルムの人口調査》の前景では豚の畜殺が行われていますが、その後に毛を焼き、解体してソーセージを作ったり、肉を塩漬けにする作業が待っているのです。丸テーブルを持つ男は解体の準備をしています。男の子がじっと豚を見ているのは、解体後にもらえる膀胱を楽しみにしているのでしょう。《ベツヘルムの人口調査》には、膀胱を風船のように膨らませている子供がいましたし、《子供の遊戯》でも豚の膀胱による「風船遊び」が描かれていましたね。

 驚くべき詳細さだ。こんな調子で全編が書かれている。これ1冊を読んでブリューゲルに対する興味が深まった。とても良い美術書だ。多くの人が読んでほしい。
※引用した絵は右端が少し切れている


ブリューゲルの世界 (とんぼの本)

ブリューゲルの世界 (とんぼの本)