池上彰・佐藤優『真説 日本左翼史』(講談社現代新書)を読む。副題が「戦後左派の源流 1945-1960」というもの。池上と佐藤が対談して、戦後から60年安保までの日本の左翼の動きを概括している。これがとてもよく整理されていて、教えられることが多々ある、というか自分がよく知らなかったということが分かった。
戦後、アメリカ軍が日本を占領し、初め日本の非軍事化と民主化を行った。マッカーサーは戦犯を指定し逮捕を命令した。また治安維持法の廃止や特高(特別高等警察)の廃止、政治犯の釈放などを命じた。
これを受けて釈放された政治犯らが日本共産党を再建した。彼らはアメリカ軍を解放軍と見なした。アメリカ軍の政策の元になったのがルース・ベネディクトが書いた『菊と刀』だった。ベネディクトの調査に協力した日系アメリカ人たちはアメリカ共産党に所属する党員たちだったと佐藤は見ている。その結果、ベネディクトのレポートは講座派の日本観を反映したものだった。それに従ってアメリカ軍は、日本の占領政策として、財閥解体や地主の土地を小作農に開放した農地改革を行った。
しかしそれまで占領政策を主導していたGHQの中のGS(民生局)から、主導権がG2(参謀第二部)に移る。G2は諜報・検閲などを担当していた。G2は反共主義者の吉田茂を支援し、1948年に第2次吉田内閣が発足する。
日本社会党は1945年、戦前の無産政党=合法的社会主義政党の関係者たちが大同団結して結党した。そ社会党は左右の幅が広く、初代委員長の片山哲はキリスト教社会主義の中心人物だったし、のちに民社党を結成した西尾末広はゴリゴリの反共主義者で、かつファシズムへの共感を隠そうともしない人物だった。
戦後、岸信介(安倍晋三の祖父)は、公職追放が解かれて政治活動を再開するにあたって、まず社会党に入党を申請したが、戦犯だったからと断られている。
戦後、国際共産主義運動の拠点としてコミンフォルム(共産党間労働者党間情報局)を作った。1950年、コミンフォルムは日本共産党の平和革命論を批判して、武装革命を指示した。日本共産党は、これを受けて党内が二分した。主流グループはコミンフォルムに従わないとして所感派と呼ばれ、コミンフォルムの指示に従うべきだとしたのが国際派と呼ばれた。しかし、所感派も中国共産党からの批判を受けて平和革命論を放棄する。マッカーサーは共産党指導部の公職追放と「アカハタ」の発行停止などレッドパージを断行する。共産党は第五回全国協議会(五全恊)で軍治方針を決定し、各地で破壊活動を行った。しかし、その方針は世論から反発を受け、所感派は国際派に歩み寄る。1955年に両派が合流し六全恊で再統一して、党として武装闘争路線が放棄される。
社会党も1955年に左派と右派が再統一する。当時三井三池炭鉱の人員整理を巡って労働組合の大きなストがあり、左派社会党の存在感が大きかった。そして総評(日本労働組合総評議会)が左傾化していった。その左傾化の流れに反発した右派が飛び出し、1964年に同盟(全日本労働総同盟)を結成した。
1956年にソ連のフルシチョフがスターリンを批判し、またソ連がハンガリーに侵攻したハンガリー動乱が起る。この年に、のちに革マル派の最高指導者、そして新左翼の代表的理論家の黒田寛一が『スターリン主義批判の基礎』を発表している。
スターリン批判とハンガリー動乱が日本の左派に大きな衝撃を与えた。1960年に日米新安保条約が調印され、その反対運動が激しく行われた。闘争の中心は社会党だった。社会党は共産党と違って統制がゆるやかだったので、周辺に集まってくる全学連の学生たちが跳ね上がることができ、やがて彼らが安保闘争全体の中で中心的役割を担うようになった。
新左翼は、武装闘争を放棄した共産党に代わる新たな革命政党を作ろうと、初めに「四トロ」が結成され、そこから「革共同」が結成され、さらに分裂して革共同全国委員会を結成する。そこから黒田が離脱して「革マル」を結成し、残った者たちが「中核派」を名乗る。社会党の青年組織である社青同から学生だけが参加する「学生班協議会」が立ち上がり、それが左に傾倒し、ローザ・ルクセンブルグの考え方に依拠して社青同解放派を立ち上げた。ローザはレーニンを批判していた。
佐藤は学生時代に社青同に属していたと語っている。そのためか社会党にバイアスがかかっている印象があるが、よく整理されていて教えられることが多かった。続篇で1960年以降の新左翼について語られるようなので楽しみだ。