『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』が面白い

 『磯崎新藤森照信モダニズム建築談義』(六耀社)を読む。磯崎と藤森の対談だが、これがとても面白かった。磯崎は丹下健三の弟子で、つくばセンタービルをはじめ国際的に活躍している建築家。藤森ははじめ近代建築史を研究していたが、神長官守矢資料館の設計以来、たんぽぽハウスなどユニークな設計で注目されている。
 磯崎は優れた設計者で理論家でもあるが、文章はきわめて難解で読みにくい。それが対談では分かりやすく話していて極めて興味深いことを披露してくれる。対して藤森は磯崎より15歳下だが、建築史を専攻していたことから建築の歴史には詳しい。設計の第一人者と建築史の専門家の対談なので期待以上の面白さを堪能できた。しかも建築を語ることが文化や思想史まで語ることになるとは思いもよらなかった。年齢差にも関わらずお互いを尊敬しあっているのが伝わってきて気持ちの良い読書だった。それにしても建築に関する対談がこんなにも興味深いなんて!
 4章の構成で、章ごとに二人を対比して扱っている。「アントニン・レーモンドと吉村順三」、「前川國男と坂倉準三」、「白井晟一と山口文象」、「大江宏と吉阪隆正」という構成。
 レーモンドは昔テレビのクイズの回答者という印象だったけど、偉い建築家だったんだ。レーモンドはライトの弟子で戦前から日本で仕事をしている。ところが・・・

藤森  レーモンドは大変な功績を遺した人です。日本のコルビュジエ派は、レーモンド、前川、丹下、磯崎とずっと受け継がれてくる。ただ戦後になると、レーモンドへの批判がいっぱいある。その一つは、”お前が東京を空襲で焼いただろ”という批判です。

 レーモンドは戦時中米軍に協力して、木造の日本建築の弱点を教え、焼夷弾の開発に協力した。レーモンドの技術指導でユタ州の砂漠に日本の木造家屋の広大な下町を再現したという。
 レーモンドはユダヤ人で、チェコにいたとき貧しい学生のための奨学金を盗んでアメリカに逃げた。アメリカで名前を変えて、日本に来たのもその国際手配を逃れるためだったのではないかと藤森は言う。その金は後日倍にして返したと。
 詩人の立原道造も建築家だった。藤森が言う。「当時(戦前)の日本の文化界、芸術界の中では、精神的あるいは感覚的なレベルにおいて、日本の建築家たちは最後に右傾化するわけです。それを、詩人立原がリードした」。立原が日本浪漫派に入り、丹下、前川も引き込まれた。
 坂倉はパリ万国博覧会日本館や神奈川県立近代美術館を作っている。その坂倉が20世紀のモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエに影響を与えていると藤森が言う。

藤森  アメリカに移住する前のミースは、柱による縦の筋はきちんとしているんですよ。だけど、フレームの美学がないから上下二つの床の間に柱が立っている感じです。鉄のフレームを組んで、フレームの間にガラスを嵌める試みをしていない。柱梁のフレームの秩序の美を知らなかったんだと思う。この点は、ミースもグロピウスやコルビュジエと変わらなかった。(中略)
……ところが、アメリカに行った途端にフレームができるようになる。(中略)
磯崎  そのルーツに坂倉さんの(パリ万博)日本館があったということですね。
藤森  そうです。日本館は木造の考え方をもとにして鉄骨造をつくっているから、フレームをつくって間にスッキリとガラスを入れるんです。(中略)(ミースは)そこでおそらく日本館を見て、柱梁のフレームにガラスをぽんと入れるということが美学として成立することを知ったんだろうと思います。それでシカゴへ渡って自分の作品でも実践したんじゃないか。ただ、坂倉さん自身は自分のやっているすごいことに、気づいていなかったんじゃないかと思います。

 白井晟一について、

藤森  今は移築されてますが、白井さんが戦前に初めて本格的につくった「歓喜荘」という建物が残っている。これは白井さんが帰国して本気でつくった最初の建築で、簡単に言えば白井さんの愛人の家です。

 白井晟一は独特の風貌で女にもてた。小説家の林芙美子ともパリで同棲し、「浮雲」という名の旅館の女主人とも同じ関係にあって、もうこの話の時点で何人も女性の影があって、どんどん増えていくわけですよ、なんて言われている。
 イサム・ノグチフリーダ・カーロが恋仲だったなんて語られる。

磯崎  まずはイサム(・ノグチ)さんがメキシコに行って、(フリーダ・)カーロと恋仲になるわけじゃないですか。二人でしけ込んでいるときに(ディエゴ・)リベラに踏み込まれて、イサムさんが二階の窓から飛びおりて逃げたとかいう有名な話がありますね。

 山口文象は日本を代表する若き建築家の一人であり、もう一つは地下共産党のメンバーだった。奥さんが前田青邨の美人で有名だった娘だった。共産党のメンバーだったことは最後までバレなかった。戦前にベルリンへ行っている。

藤森  ……帰国するにあたって、カールスルーエ工科大学のレーボック教授のところへ行きますが、ダムの曲面の特許を売ってくれないので、計算式だけはちゃんと覚えてきた。今でも黒部川第二ダムは問題を起こしてないので、成功したと思います。

 ついで、大江宏と吉阪隆正の章で、磯崎が大江、浜口隆一、丹下健三の卒業制作を比べて、三人とも同格の銅賞だったが、この時に採点があったら、磯崎は大江、浜口、丹下の順になるんじゃないかと言っている。また「浜口さんはすべてに理屈が通っているから、やっぱりグロピウス、バウハウス的な構成ですよね。丹下さんは完全にコルビュジエのコピーです」と。

藤森  日本の建築界は、普通だと相容れないようなものがあっても、生存は認めるというような独特なところがあると思うんです。戦後の日本を考えたときに、丹下、前川、坂倉がいる一方で、まったく同じように村野藤吾白井晟一、そして吉坂隆正がいる。前川さんは白井さんを嫌うわけじゃないし、村野さんが抑圧されるわけではない。それぞれ立脚点は違うんだけど、ちゃんと尊敬されているというのは世界的に少ないですよ。前川さんや丹下さんだって、村野さんの手摺りの美しさを見れば、本人の前でそうでかい顔はできないですよ。

 さらに「近代の超克」まで語られる。

藤森  丹下さんの富士山の麓の「大東亜建設記念営造計画案」は、磯崎さんの丹下理解が正しいとすれば、背後に「近代の超克」論を置いている。そして戦後の広島計画に繋がっていく。だから、「近代の超克」というのは、ヨーロッパがつくり出した近代を超えようという言い方をしているけど、バウハウス流の抽象的な近代主義デザインを超えようとした。そこで丹下さんは、伝統をふまえ、かつ世界で通用する質を求めて、富士山の麓にコルビュジエと伊勢と法隆寺を一体化したような案をつくった。
 丹下さんは日本の伝統を取り入れることで超克することに成功した。普通の人には伝統的として見えないけど、建築家にはモダニズムの一部を超克したことがわかる。だから審査した前川さんが金玉を蹴られたような衝撃を受けたんだ。その質が、戦後のアメリカに大きな影響を与えていくわけですね。……

 いや、とにかく面白い本だった。同じ出版社から『磯崎新藤森照信の茶席建築談義』という本も出ているようだ。これも読んでみたい。

磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義